父のこと ゲイである自分と

 父は亡くなる前の一年半ほどは入院生活であった。
 認知症からくる夜間の不穏で家族が疲弊し始めていた丁度のおり、トイレで起きた低血糖発作での意識喪失で救急搬送、さらに受入をしてくれた大きな病院でラクナ梗塞が見つかり療養転院した先でのことだった。

 当時はまだまだ元気だった母に取って父の病室に通うことは日課となっており、亡くなるまでの日々を土日構わずに毎日朝から夕方前まで病室で過ごしていた。
 私はと言えば当時はホテル勤務でまだそう重い役職にも就いておらず、夜勤をメインとした勤務態勢の中、週に2、3回、勤務開けに顔を出していた。

 亡くなる半年前ほどのことだったろうか、母から相談があった。
 朝方、病室に顔を出した母親に看護師から父の様子についての話がある際、なぜか必ず父が怒ったように興奮するのだと言う。
 父は当時、認知症の進行で発語の力が衰え、会話を上手く進めることは出来にくくなってきていた。
 私が顔を出す際に片手を上げ「よっ!」と声をかけるのだが、その際にも声の返事は出ず、片手を持ち上げるのがせいぜい、ぐらいの反応であったと記憶している。医療スタッフの問いかけや話しかけに対しても、軽く頷きが出るか出ないか、ぐらいなのではなかったのだろうか。
 普段は母のとりとめの無い話しを聞くともなく聞いていたであろうそんな父が、なぜか母と看護師が話す際にだけは、唸り声を出すほどの興奮した様子を見せるのだと言う。
 取りあえずどんな状態なのかを見るために、母と看護師に私の夜勤明けの時間と日程を伝え、訪室している時に同じ状況を作ってもらうようにお願いをした。

 なるべく普段の状態と条件を変えたくなかったので、夜勤明けの早い時間に来院し、私は病室の外の廊下で看護師さんと母の会話を聴くことにした。

 普段は朝、母が病院に付いてしばらくの後に行われるであろう会話は、比較的落ち着いていた当時の父の状態からすれば、そこまでドラマチックな内容なものでは無かったはずだ。
 実際に私に合わせて少し時間をずらしてもらったその日も「昨日の夜には少し声を出されていたけど、しっかり眠っておられました」程度の簡単なものであったと思う。
 母としても毎日顔を出しているわけであり、このような入院患者の状態説明の際には普通に行われる、それこそ当たり障りの無い話しぶりだったろう。
 なのに母の隣で寝ている父が、本当にその会話のときだけ唸り声を上げ、何かの思いを訴えるかのような反応を見せたのだ。
 看護師が下の世話や清拭などをする際には普通にしている父なのであるが本当にそのときにだけは、暴れる、とまではいかないものの、私がこっそりと聞いているだけでも、不満いっぱいであるような反応を示すのであった。

 父の様子を窺っていた私には、なんとなくピンとくるものがあった。
 入院前から認知症は患っていたため、父自身の明確な意思確認は行えずに検査や処置、転院などは進めてしまっていた。
 その際、医師や看護師からのムンテラの内容を「斯く斯く然々の検査が○○だったから、●●の治療をするらしいよ」となるべく説明するようにはしていたのだ。
 おそらくそのすべてを理解することは出来なくなっていたとは思うのだが、こちらの説明にうんうんと頷いていた父の姿は記憶にしっかりと残っていた。

 父の認知症は、認知機能障害の進行とともに身体的な能力も同時に落ちていったため、入院中は端から見れば「手の掛からない」患者だったと思う。
 これが認知症の進み具合と身体能力が高いままなどのズレが生じると「いっときも目が離せない患者さん」状態から身体拘束をせざるを得ないことも多いと思う。
 入院前の父の様子は夜間も4時過ぎまで排泄要求がほぼ15分おきに繰り返され、介護する家族としてもかなりギリギリの状態だった。
 実際の排尿があるわけでは無いのだが、とにかくトイレに連れていけと騒ぐ状態で、居室のポータブルトイレの使用も拒否し、母、姉、私と交代で対応していたが、そろそろ限界かな、と思えるほどの状況だったのだ。

 入院後は、幸い、と言っていいのかは分からないが、父の「認知機能の衰えと身体能力の衰えがバランスよく進んでいった」ことにより、私達家族に取っては精神的にかなり「楽」な日々を送ることが出来たのだ。

 比較的穏やかな入院生活の中、朝からの父の反応の激しさに、母が不安を覚えていたのは間違いなかった。
 父の様子を垣間見させてもらった後、私は病棟の看護師と母に、次のように話したと思う。
「たぶん父は『自分のことを自分を抜きにして話題にされている』というのが嫌なんだと思います。看護師さんからの話しを母にではなく、父に対して話しかけてもらうようにすると聞いてくれるのではないでしょうか」と。

 看護師さんも、それいいかもですねと二つ返事で翌日から取り組んでくださり、果たして父は看護師の自分に語りかけられる言葉をにこにこと笑いながら聞いていたのだという。

 その場に「まるでいない人のように扱われてしまう」ことのへの不安や反感といったものは、おそらく認知機能の低下や知的障害とは別の部分で感じ取る力を、人間は持っているのではなかろうか。
 父の様子を母から聞きながら、私もそのようなことをぼんやりと考えていた。

 父が亡くなるまで入院していた病院は、当時の父の担当ケアマネージャーさんが探してくれた。社会的入院を受け入れていた医院で部屋も二人部屋を一人で使用させていただいており、家族で感謝していた。
 父は糖尿病、高血圧、高脂血症、通風と、それこそ当時の成人病オンパレードの状態であり、更には難病指定の突発性血小板減少性紫斑病、十二指腸潰瘍術後、ラクナ梗塞などと数えるとキリが無いほどの病歴があった。
 糖尿病のインシュリン反応もなかなか安定せず、救急車も常連と呼べるぐらいに何度も低血糖発作で呼んでおり、搬入先の救急対応も若い医師だと血液像のあまりの悪さひどさに、何度も確認するほどの持病持ちだったのだ。

 亡くなったのは、前日に血圧の降下が見られ、家族の方も覚悟してくださいとの医師の話に、親戚にも集まってもらい、一晩過ごすも持ち直す、という、これまで何度か繰り返してきた状況の翌日のことだった。
 私はちょうど夜勤明けの日で、姉からの電話をもらったのは、前日のこともあり、母と母の姉が病室に泊まらせてもらっていた深夜のことであった。
 スパゲティシンドロームにはしたくないという私達家族の要望もあり、父には鼻孔下の酸素供給、脈拍と血中酸素濃度測定のモニターが付いただけの状態であったと記憶している。

 納棺された父の遺体の顔は、命の火が絶えたことが信じられぬような穏やかなものだった。


 私は五十代中庸となるゲイであり、この年まで一度も結婚という選択をしたことが無い。残りの人生を歩む中でも、女性と結婚することは無いであろう。
 また、同性婚の制度確立の運動には大いに賛同しているが、制度確立を迎えることが出来たときに、自分が今の相方と制度を利用するかと問われても、しっかりとした返事をすることが出来るのかは、今の自分にははなはだ心許ないのだ。
 それは相方への想いとはまったく別のところにある、親戚や社会に対して、自らの生き様を強く示し得なかった自分自身の落ち度のせいでもあるのかもしれないのだが。

 それでもかつて、父が病床で見せたような「自らの存在が無きものとして扱われる」ことだけは、避ける生き方・考え方をしていきたいとは思っている。
 これから先の時代を生きる若者には「そのような憂いすら笑い話になるような未来」を生きてもらいたいと、心から強く、願っている。

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