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生きたいと叫び続けていく

今日は誕生日。僕は20歳になった。
最近になってようやく、今を生きていることに
心から感謝をするようになった。


先日、栄にある病院へ行った。
院内には、小さな赤ん坊から高齢者までの幅広い年代の患者がいた。
患者の半数が何かしらの障害を抱えている。
上手く喋ることができなかったり、目の焦点が合っていなかったり。

僕はそういった患者がいる病院へ年に2度通っている。
僕は癲癇(てんかん)患者だから。


時は遡り、2001年3月27日に誕生した僕。
体重は4000g越えのビッグベイビーだった。
両親は喜び、先生たちも祝福をしてくれた。

だが、健康的に生まれてきたと周囲が思っているのも束の間のことだった。

両親曰く、初めて起きた発作が2歳の時。
おもちゃで遊んでいた時、突然僕の体が痙攣をし出したのだ。

それを見た両親は大急ぎで近くの市立病院へ駆け込んだ。
痙攣状態が続いた僕を診察した先生が両親に放った言葉は、
「息子さんは癲癇を患っています。」だった。
母は泣き崩れ、父はそんな母の背中をさすりながら先生の話をじっと聞いた。


正直、僕はこの病気についてよくわかっていない。
両親に癲癇について話されたのは小学5年生の時だったし、
そもそも、発作が起きたのは物心がつく前のことだった。
10年以上、何も起きずにいる。

ただ、そんな僕でも2つわかることがある。

1つは、癲癇とは人生をかけて向き合っていく病気。
いつ発作が起きるかは、誰にもわからない。
10年以上、無事だからといって安心はできない。
今、痙攣が始まって死ぬことなんて珍しいことではない。
薬を服用して一時的に抑えることはできるが、治るとは限らない。
そんな病気だということを僕はわかっている。

もう1つは、僕は運が良いということ。
これまで見かけてきた癲癇患者には障害を抱える人がいた。
運動を禁止されている、誰かに支えてもらわないと生活ができない。
そんな人たちが多くいる中、僕には何もない。
普通に人と喋ることができるし、スポーツも十分にできている。
誰かの支えを常に必要とする生活を送らなくてもいい。
同じ病気を患っていても、状況が全く違う。
不自由なく育ち、生きている。
表現の仕方はどうであれ、僕は明らかにそういった患者より運が良い。

今日は20回目の誕生日。
それなりに物事を理解できる歳になった。
そんな今だからこそ、思うことがある。

当たり前のようにあるこの状況は、限りなく奇跡的であること。
運が少し足り無ければ、今の生活は有り得ないということ。
病状、環境、周囲にいる人が恵まれていることに感謝をすること。


今後の人生において、僕は大事にする言葉がある。
「生きたい」だ。

今日死んでもおかしくない状況で、生きることができている。
そんな僕が、死にたいという言葉を使ってはいけない気がする。
どんな状況に陥っても、「生きたい」と思い続ける。
「生きたい」と叫び続ける。
生きることをさせてもらえなかった人がいるのだから。


3月27日、今日を迎えることができて本当に良かった。
本当に嬉しい。
生きている実感を感じることができる誕生日に、
大きな声で「ありがとう」と言おう。


最後に


「すべての癲癇患者に幸あれ!」


令和3年3月27日 空本 杉太郎

ー 生きたいと叫び続けていく・完 ー




あとがき




2020年の夏の暑い日のこと。

それは本当に突然のことだった。

今もお世話になっているバイト先の店長から一本の電話を貰った。

「K君が亡くなってご両親がくるから一言挨拶してほしい」

店長の言葉がすっと耳へ。

いつまでもその言葉は残った。

当時、僕は実家にいて、コロナ拡大時期だったこともあって、

K君のご両親に挨拶ができなかった。

後悔した。なぜ今ここにいるんだろうと。

今でも信じられない。

現実を拒否している自分がいる。

彼は僕と同い年で、身長が180センチあって、イケメンで優しくて、

勉強も仕事もできて、僕からしたら憧れの人で、兄ちゃんのような存在だった。

バイト後は2人でよく渋谷のラーメン店を巡って、

悩みを話したり、馬鹿みたいにしょうもない話で盛り上がったりした。

そんなK君が若年性脳梗塞が原因で亡くなったなんて信じられない。

連絡が来てから二週間後に東京へ戻ったその夜、彼にラインをした。

「Kさんお久しぶりです。」

「最近調子はどうですか?」

と二言送った。

でも、返信は返ってこない。遅くてもその日に返してくれる人なのに。

僕は泣いた。

彼と出会ってから8ヶ月しか経っていないのに。

こんなにも悲しむ自分がいる。

たった8ヶ月、されど8ヶ月。

同い年のK君が死んだことにショックを受けた。

バイト中、ふとした時に彼のことを考える。

「今もここにいたら」と。

同時に、東京へ戻って最初のバイト後に聞いた

「K君は苦しくても弱音を吐かなかった」という言葉を思い出す。

もっと生きたかったはずなのに、なぜ生きれなかったんだろう。

神を恨んだ。

けど、何もできずにただそれを受け止めないといけないだけの自分に腹が立った。

時々、街を歩いていると彼に似た風貌の人を見かけ、

思わず声をかけてしまいそうになるけど、

彼ではないことに気づき、出かかった言葉を飲み込む。


本文でも書いたが僕は20歳になれたことが本当に嬉しい。

生きたいと叫んでも、生きられなかった人がいる中で、

好きなことをやったり、世の中に不満を持ったりと

普通に生きることができているのだから。

憧れの人で、お兄ちゃんで、親友だったK君の死。

元々自分の中であった、人生=時間という強い考え方を

さらに強くさせたのかもしれない。

僕はよく周りに生き急いでいると言われる。

でも、そう言われるくらいが人生を後悔なく過ごせる秘訣だと思う。

そうだと信じたい。

生きたいと思っても、生きれないのなら、

そうなる前にやりたいことは全部やりたいと思う。


K君の死から9ヶ月が経とうとしている。

梅雨の時期に入ったか入ってないかの曖昧な時期になった。

この頃、晴れ間が続いて夏の始まりを合図するかのような暑さだ。

急に思い出して、ここに書こうと思ったくらいには整理できた。

けど、思い出が蘇ってくるんだ。

彼と過ごした何気ない日々の積み重なりが。

ここまで長く書くつもりはなかったし、

まさか夜中の1時40分に泣きながらやってるなんて思わなかった。

てか、

「あとがきの方が長いって何w」ってK君にからかわれるかもしれないな。

ああ、人生って難しいよ。

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