全成の謀反と義時の覚醒

2022年8月7日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第30話「全成の確率」が放送されました。

阿野全成(演:新納慎也)の謀反とその顛末を描いた回です。

一説によれば、全成は頼家亡き後を千幡(後の源実朝)に継がせるという北条時政(演:坂東彌十郎)の策略に乗せられて謀反の疑いをかけられ、常陸国に配流となり、1203年(建仁三年)6月23日、八田知家(演:市原隼人)に殺されたとされています。

全成が斬られるシーンは雷鳴は轟き、落雷が落ち、大雨は降るという、まるで後の世に出てくる日蓮が死罪を賜った時のような描写になっていました。

いやー、法力ってほんとに怖いですね(汗)。

それでは第30話の振り返り、いってみましょう。

時連から時房へ

後白河法皇の第一の側近であり、鼓の名手、検非違使の地位にいたので「鼓判官(つづみのほうがん)」と言われた平知康(演:矢柴俊博)

公家の格好してますけど、一応、この人、武士(北面の武士/院の警護役)ですから(笑)。

1183年(寿永二年)法住寺合戦で後白河法皇(演:西田敏行)を守って源義仲(木曾義仲/演:青木崇高)と戦って敗れて解官(クビ)。

義仲亡き後、検非違使に復官しますが、1185年(元暦2年)に義経に肩入れしすぎてまたまた解官(クビ)。

しかしこの時は納得いかず、鎌倉まで弁明に赴いた際に、なにがどうなったのか、頼家の蹴鞠の指南役に納まっています。

今回、知康は北条時連(演:瀬戸康史)に名前を変えろと言いました。

知康「最後にいいことを教えてやる」

時連「……なんでしょう?」

知康「お前の名、今すぐ改めよ」

時連「え……」

知康「時連の『連』は、銭の穴を貫いて束ねる『連』を思わせ、非常に品が悪い」

時連「しかし、父が……」

知康「向こう(京)で活躍するのを夢見ているのだろう?」

時連「はい」

知康「他の者どもの蹴鞠は邪心が見える。そなたの球筋だけは常に真っ直ぐであった」

『鎌倉殿の13人』第30話「全成の確率」00:20あたりから

これは『吾妻鏡』建仁二年六月二十五日のエピソードが元になっています。

尼御台政子(演:小池栄子)が御所を訪ねて蹴鞠の会をご覧になりました。その終わった後のことです。

御所の東北側の建物で飲み会が開かれ、舞姫が踊り、鼓判官知康が鼓を打ちました。宴会が佳境に入ると、鼓判官知康が前へ出てきて、お銚子を取り、酒を北条時連に勧めました。

この時、酒を飲み過ぎていた知康は言いました。

「北条五郎(時連)は、容姿と云い立ち振る舞いと云い、素晴らしい逸材なのに残念ながら実名に品がない。時連の「連」の文字は、銭を貫くの意味だろうか、それとも歌仙と謳われた紀貫之につながるので讃えるべきか。みなさん、そうではありません。彼は早く名を変えた方がよいのです。将軍様、直にこの旨をお命じください」

とのこと。これを受け北条五郎は
「それでは連の文字を変えましょう」
と承知したとのこと。

『吾妻鏡』建仁二年六月二十五日

ところがこれには後日談がありました。翌日、政子は激怒しています。

「昨日の出来事は楽しいものではあったが、鼓判官知康が一人勝手なことをしたので、非常におかしな会でした。(かつて)伊予守木曽義仲が、法住寺殿(後白河の院庁)を襲撃した戦によって、公卿や殿上人が大変な目に遭われました。その原因は知康によって起きたのです。又、源義経に同心し、関東を滅ぼそうとしたので、先代(頼朝)は激怒されて、あの者の職を解き、追放するように法皇に申し入れました。

それなのに、頼家が彼を召し抱えているなのはどういうことか」

『吾妻鏡』建仁二年六月二十六日

平知康が勝手に弟の諱をけなし、将軍に「改名せよ」と命じてほしいだの、姉の身からすれば「余計なお世話」ですわね。

それがよほど不愉快だったのでしょう。知康の過去の罪科を明らかにした上、「うちの子はなぜあんな人間を召し抱えるのか」とまで触れているのですから。

とはいえ、「北条時連」は以後、「北条時房」と名乗ります。
この諱はドラマでは鎌倉殿から賜ったことになっています。

しかし、もっと驚いたのは、時政のこの一言です。

時政「いいじゃねぇか、ワシも気に入ってなかったんだ」
時房「そうなんですか?」
時政「『連(つら)』の字は三浦からもらったんだが、『連(つら)』ってなんだよって(笑)」
時房「早く言って欲しかったな…….」

『鎌倉殿の13人』第30話「全成の確率」23:10あたりから

時連の元服は1189年(文治五年)で、烏帽子親は三浦義澄(演:佐藤B作)の弟・佐原義連でした。この時「義連」の『連』をもらったという話が初めて明かされます。

そうそう、京都に戻った平知康の動向は不明です。
ただ、このドラマでは、承久の乱で上京する時房とまた再会することがあるのかもしれませんね。

全成謀反までに鎌倉であったこと

時連の改名から、全成謀反に至るまでの間、鎌倉であったこと『吾妻鏡』をもとにまとめます。

1202年(建仁二年)

7月17日 頼家、伊豆で狩りをする。
7月29日 蹴鞠の会
8月21日 蹴鞠の会
8月23日 江間太郎泰時が、三浦平六兵衛尉義村の娘と結婚。
9月9日 頼家、鶴岡八幡宮の重陽の節句の参詣
9月10日 三島神社祭。江間四郎北条義時が代参。
9月11日 荏柄天神社祭り。大江広元が代参。
9月15日 蹴鞠の会
9月21日 頼家、伊豆・駿河で狩りをする。
閏10月1日 笠懸奉納の会
閏10月15日 頼家、諸国守護人が雑務を請け負うことを禁止。
11月21日、頼家次男・善哉、鶴岡八幡宮にお宮参り。
12月19日、平知康、古井戸に落ちる。

1203年(建仁三年)

1月1日 頼家 鶴岡八幡宮に参詣。
1月2日 頼家嫡男・一幡、鶴岡八幡宮へ幣を奉納し、馬を二頭奉納。
2月4日 頼朝三男・千幡、鶴岡八幡宮へ幣を奉納し、馬を二頭奉納。
3月10日 頼家、病気。
3月14日 頼家、回復。

ほんと蹴鞠の会、多すぎですね。

全成謀反

阿野全成の謀反について、吾妻鏡は淡々と記しています。

子の刻(午前0時頃)、阿野全成が謀反と聞いたため、御所へ連行して監禁しました。武田五郎信光が捕まえました。すぐに宇都宮四郎兵衛尉頼業に預けられましたとのことです

『吾妻鏡』建仁三年五月十九日

武田信光は、甲斐源氏棟梁・武田信義(演:八島智人)の五男です。
父と違って頼朝の信任が厚く、馬術・弓術に優れた才能を発揮していました。

武田氏惣領の座は四男の武田有義が有力でしたが、1201年の梶原景時の変に連座して行方不明となり、五男の信光が武田氏当主となっています。

宇都宮四郎兵衛尉頼業は、あくまでも仮説になりますが、下野宇都宮氏当主・宇都宮頼綱の弟、塩谷朝業ではないかと思われます。

全成が逮捕された翌日、頼家は全成の妻・阿波局(実衣/演:宮澤エマ)の逮捕を腹心・比企時員(演:成田瑛基)に命じました。

将軍頼家様は、比企弥四郎時員を尼御所(政子の居所)に遣わして、こう言いました。

「全成が、謀反をたくらんだので逮捕しました。彼の妾の阿波局がこちらの御所へ仕えておられますね。早く呼びつけてください。色々と訪ねたいことがありますので」

これに対し、政子は

「このようなこと、女性に知らせる訳がない。それに、全成は去る2月に駿河国へ行って以来、連絡がありません。これ以上は疑いようがないいでしょう」

と申され、阿波局を出すことはありませんでした

『吾妻鏡』建仁三年五月二十日

これ、全成の逮捕の翌日です。あまりにも手回しが良すぎます。
そして政子が阿波局を守り、その後この話が出ていないので、頼家も大人しくしたがったのだと思います。

ただ奇怪なのは、全成が謀反したことだけが記載され、何が動機で、具体的などういう謀反を起こしたのかが『吾妻鏡』に全く記載されていないことです。

全成は同月の5月25日に常陸国に流罪となり、6月23日に頼家の命令で八田知家の手で下野国で処刑されました。

『吾妻鏡』にはこの事実しか書かれていません。その間にどういう詮議があったのか、なぜ常陸から下野に移されたのかも全くの謎です。

俗説では、全成は頼朝三男・千幡の乳母父であり、北条時政は比企氏と距離の近い頼家を廃して、千幡を擁立しようとする企みを持っていた、その牽制のため、全成を殺したという話がありますが、やや無理すぎ感があります。

御家人の所領の再分配からの比企の陰謀

さて、今回の放送回には、下記のような場面がありました。

大江広元「例の所領の再分配の件で、御家人たちから比企殿に申し立てがきています」

比企能員「またか……」

三善康信「これが昨日の分です」

能員「土地の再分配は鎌倉殿が兼ねてよりお望みだったことじゃ、今更あーだこーだ言われても困る!」

二階堂行政「突き返しますか?」

能員「小四郎……どう思う?」

北条義時「所領の少ない御家人たちは、土地を与えられることを喜んでおります。しかしその土地は、我ら含め、所領を多く抱える御家人から召し上げるもの、文句が出て、当たり前……」

『鎌倉殿の13人』第30話「全成の確率」20:35あたりから

これは、1200年(正治二年)12月28日の『吾妻鏡』に書かれているエピソードが元になっています。

頼家は、政所に命じて、諸国の国衙にある荘園などを書き出した書物を取り寄せて計算させました。そして、治承、養和の源平合戦(治承・寿永の乱)以後に与えられた新恩の土地については、一人に付き、五百町(約4.9ヘクタール)を超えた御家人に限り、その越えた分を取上げて、地頭職の無い無足の御家人以下の連中に与えるように、普段から内々に言っておられましたが、今日、これを実施するように大江広元様に命じられました。

このことは、とんでもないことです。人々の嘆きや、世間からの批判の的になるのは必定と、大江広元を始めとする宿老(十三人?)たちが困り果てています。

今日、屑入道三善善信達が、諫言したので、(頼家は)しぶしぶ一旦取り下げました。しかし来春に決定すると言い放ちました。

『吾妻鏡』正治二年十二月二十八日

時期的には、ドラマの劇中では建仁二年(1202年)ないし三年(1203年)なので、上記の内容が履行され、御家人たちの不満が勃発しているという情景になるのだと推察します。

比企能員(演:佐藤二朗)は御家人の不満を頼家に上申しますが、逆に頼家より「お前が持っている上野の所領をすべて差し出せ」と言われ、これに激怒して頼家の暗殺を企てるというのがドラマの筋書きでした。

能員は常陸の全成の元を訪れ、「実衣殿に危機が迫っている」「妻を助けてやれ」と言いながら、人形を彫る材料と道具を与えて、頼家の呪殺を依頼します。

これが配流先の監視役・八田知家の家人の知るところとなり、全成の謀反の確たる証拠となって斬罪に処せられるのです。

はい、全部比企のせいですね。

かつて私が書いたこのエントリーも読んでいただけるとこの男の陰険度合いがよくわかると思います。

義時覚醒

全成の最期を実衣(阿波局)に伝え、帰っていく義時を政子が追いかけ、このドラマの本質とも言うべきところを突き詰めます。

政子「小四郎!……こんなことがいつまで続くのです」
義時「……私に言わないでください……」
政子「なんとかなさい!」
義時「一体何ができると言うのですかっっっ!!」
政子「……私だってわからないわよ……」
義時「…….」
政子「考えなさい、私も考えます」

『鎌倉殿の13人』第30話「全成の確率」36:06あたりから

義時(演:小栗旬)は自邸で考えました、考えた結果、比企と対決し、事と次第によっては能員を討つところまで考えていました。善児(演:梶原善)に退路を塞がせたのがその表れだと思います。

義時は言いました。

義時「ようやくわかったのです。このようなことを二度と起こさぬために、何を為すべきか。鎌倉殿の下で、悪い根を断ち切る……この私がっ!」

『鎌倉殿の13人』第30話「全成の確率」40:42あたりから

義時覚醒の瞬間です。

ドラマの中の鎌倉幕府は源氏嫡流と東国御家人によって生まれました。そしてその根幹はと頼朝と政子と義時によって構築されたと言っていいでしょう。

頼朝を失い、後を継いだ頼家はまだ21歳。頼朝は挙兵時は33歳でした。それにくらべて頼家は経験がなく、御家人たちと陣を共にしたこともないから、御家人たちとの一体感もない。

その点にうまく取り入ったのが比企能員でした。能員は乳母父であり、頼家の後見役としては最適でしたが、頼家の経験値の低さによって、能員のいいように操られてしまったというのがこの時の現状だと思います。

義時は政子から言われたことを考えた結果、「今の鎌倉のこの現状の打開には比企の排除しかない」と考え、比奈(演:堀田真由)にもこのことを話したと思われます。

しかし、義時は気づいていませんでした。
比企能員は確かに許せない存在ですが、権力を手にした人間は皆、比企のようになるということを。

そしてその信念のために、後に、自分の父親ですら追放することになります。

義時の比企能員排斥の企みは、鎌倉殿が突然倒れたことで崩れてしまいます。それは建仁三年七月二十日のことでした。

戌の刻(午後八時頃)、將軍頼家様が、急病となられました。かなり苦しそとようです。ただ事ではありません。

『吾妻鏡』建仁三年七月二十日

これが新たな事件の幕開けとなるのです。

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