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あの約束はナーシ! by 後鳥羽上皇

2022年11月27日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第45話「八幡宮の階段」が放送されました。

鎌倉幕府三代将軍・源実朝(演:柿澤勇人)が鶴岡八幡宮で二代将軍頼家の遺児・公暁(演:寛一郎)に殺害されるという事件を描いたものです。

鎌倉幕府の公式資料である『吾妻鏡』と天台座主・慈円(演:山寺宏一)の書いた『愚管抄』を併せて読むと、確実な事実は以下の通りになります。

・鶴岡八幡宮の階段で実朝が公暁に殺害された。
・源仲章は義時と間違われて殺害された。

この2つの書物で違うのは義時に関する描写です。『吾妻鏡』ではこうあります。

八幡宮の楼門に入られた時、義時は急に気分が悪くなり、将軍の太刀持の役割を源仲章に渡して退出し、神宮寺の所で列から離れ、自宅に帰りました。

『吾妻鏡』建保七年正月廿七日

一方で『愚管抄』はこう書いています。

(公暁が)源仲章を義時だと思って、(実朝と)同じく斬り殺してしまった。義時は将軍の太刀をもちて側にいたが、実朝より「お前は中門にとどまれ」と命じられてとて留められていた。

『愚管抄』

この記述の違いは北条家の家格や義時の身分に問題があると言われています。しかし、この時、義時の位階は従四位下。仲章の位階は従四位上。

従五位以上が貴族とされていた当時、義時が中門に留められるほど身分が低かったのかというと私は疑問です。何か別の思惑が実朝にあったのではないかと思っています。

実朝暗殺の内容は他のブログやYouTube動画で散々取り上げられていますので、ここでは省いて、その後の成り行きを書物から見ていこうと思いますが、一点だけ、触れさせていただきます。

ドラマでは公暁を討ち取ったのは三浦義村(演:山本耕史)ですが、『吾妻鏡』では三浦の家人・長尾定景となっています。この長尾氏は宝治合戦時に三浦に味方したため没落しますが、その後、生き残りが上杉氏に支え、やがて戦国大名・長尾氏につながっていきます。

実朝殺害翌日のこと

幕府は実朝が暗殺された翌日1月28日に、加藤景廉を使者として京都に遣わしました。景廉はこの時代にはもう少なくなっていた頼朝挙兵時からの古参の御家人で、この時すでに63歳。相当なご老体ですね。

なお、この日、将軍御台所(坊門姫)は髪を下ろして出家されました。
同様に出家した御家人が100名以上いたと『吾妻鏡』に載っており、数人の名前が記されています。

源 親広(武蔵守/大江広元嫡男)
長井時広(左衛門大夫/大江広元次男/長井氏の祖)
中原季時(京都守護/中原親能嫡男)
安達景盛(秋田城介/安達氏二代当主)
二階堂行村(隠岐守/侍所所司/二階堂行政嫡男)
加藤景廉(左衛門少尉)

景廉は出家してから京都に行ったんでしょうね。慌ただしいことです。
景廉は1月28日に出発し、2月2日に京都に入り、2月9日に鎌倉に戻ってきました。4日間で京都に移動し、同じ期間帰路についたことを考慮すると京都の滞在日数は3日間ということになります。63歳の老体には酷なことだったでしょう。

尼将軍政子の誕生

この時期の『愚管抄』にこういう記述があります。

鎌倉は将軍の後を母堂の二位尼(政子)が惣領として務めると、右京権大夫(義時)が決定したと聞いている

『愚管抄』

実朝の後継者の話は実朝が生きている時代から始まっていました。
しかし実朝が殺害された以上、一刻も早くその方を迎えねばなりません。

とはいえ、鎌倉側の都合だけで動くことでもありません。

それまでの間、御家人の動揺や不穏な動きを封じるのは、執権である義時の役割です。義時はそれを政子に求めました。

鎌倉幕府初代将軍の御台所であり、「尼御台」として実朝の後見役でもあった政子の権威は嫌が上にも高まっていました。逆に言えば、政子がいなかったら、この後続く北条氏の執権体制も確立しなかったと言えます。

義時にとっては、政子を神輿にすることで堂々と政治を主導することができるわけです。まさに

「もう私に敵はいない」

状態でした。現代風に言えば「義時無双」状態です。

後継将軍への動き

1219年(建保七年)2月13日、尼御台政子は二階堂行光(二階堂行政次男)を京都に遣わしました。目的は六条宮(雅成親王)冷泉宮(頼仁親王)のうちどちらかも将軍として鎌倉に遣わしてほしいというものです。

このことは『愚管抄』にも記載がありました。

尼二位(政子)が使者を京都に遣わした。行光という政所の仕事をしてる者であった。猟官運動で信濃守になった者だ。上皇様のお子を(鎌倉に)下向させて将軍にさせてくれという。

『愚管抄』

この時の行光の交渉結果は閏2月12日に鎌倉に書状で届きました。
それは

「尼御台がお願いしている宮の鎌倉下向のことは、今月1日(閏2月1日)、後鳥羽上皇のお耳に入り、院庁でお二人のうち一人は必ず鎌倉に下さらせるとお決めになられました。但し今すぐではないと、4日に仰せになられました。こうなると一旦鎌倉に戻った方が良いでしょうか?」

『吾妻鏡』建保七年閏二月十二日

という内容でした。
鎌倉からすれば上皇の返答は「え?なんで?」という感じだったでしょう。

実朝が死んだことはすでに上皇もご存じで、だからこそ親王を下向させてくれと政子が言っているわけですから、鎌倉が急いでいることはわかっているはずです。

それがわかっていて「今ではない」というわけですから、これは政子の願いに対してほぼゼロ回答に近いと思います。

ただ、上皇からすれば、鎌倉幕府の最高権力者である実朝が殺害されたということは、その後釜に自分の子を下向させるとなると、同じような目に会う可能性も十分あり得るわけです。

そのため、上皇が我が子を下向させるのを躊躇うのも理解できます。とはいえ、一度決めた内容は変えられない。ゆえに「しばらく様子を見させてくれ」という意味かと思いました。

慌てたのは幕府です。
2日後の閏2月14日、二階堂行光の使いの者を京都に帰す際に

親王の鎌倉下向については、なるべく早くして頂きたいと、上皇様に申し上げるように。

『吾妻鏡』建保七年閏二月十四日

と申し伝えています。

これを受けて、上皇は3月8日、藤原忠綱を院からの弔問使として遣わしています。
そして鎌倉殿が「はい?」と聞き返すぐらい素っ頓狂な要求をしてきたのです。

それは
摂津国長江庄と倉橋庄の地頭職を停止しろ(交替しろ)
というものでした。

この2つの荘園は後鳥羽院領でしたが、上皇はこの荘園の領家職をお気に入りの白拍子である亀菊に与えていました。しかし、亀菊にとっては幕府から補任された地頭職が目障りだったらしく、院に地頭職の停止を要求したのではないかと推察します。

幕府からすれば「いやいや、こっちが頼んでいる親王下向はどうなってんの?」という感じです。

3月11日、藤原忠綱は鎌倉を出立して京に帰っていきました。
その翌日、政子邸で緊急会議が召集されています。
集められたメンツは

尼御台政子(将軍代理)
北条義時(幕府執権/右京権大夫 兼 陸奥守)
北条時房(幕府政所別当/相模守)
北条泰時(幕府侍所別当/駿河守)
大江広元(前大膳大夫)

上記の通りで、議題は当然、数日前にやってきた藤原忠綱の件です。
返事をいつまでも保留にすると上皇の機嫌を損ねる可能性があったからでした。

この会議の結果については、坂井孝一先生の著書『承久の乱』にこうあります。

時房が政子の使者として千騎の軍勢を率いて上洛し、地頭改補を拒否した上で親王の早期下向を上皇に要請するというものであった。

坂井孝一『承久の乱』(中公新書)P111

これは上皇の先般の実質ゼロ回答に対する意趣返しとも取れますが、院と幕府に間に相当の溝が生じたのは確かでしょうね。

『愚管抄』によると、この後、上皇は「親王を下向させると日本が二つ割れる危険性がある」と言い出して親王下向は完全に白紙となります。

まさに「あの約束はナーシ!」みたいな感じです。

しかし上皇は「摂関家の子ならば望み通りにしよう」と言い、九条道家の子・三寅がそれに選ばれました。

道家の母親は頼朝の同母妹の娘(頼朝の姪)だった縁になります。

阿野時元 謀反

1219年(建保七年)2月14日、政子は伊賀光季(二階堂行政の孫/「のえ」の兄)を京都守護に任じて派遣しています。これは中原季時が出家した後釜かと思われます。

そして翌日2月15日、駿河国より鎌倉に伝令が到着しました。阿野時元(演:森 優作)が駿河国深山に砦を築いて軍事活動を始めていると、それは天皇家の命令であると『吾妻鏡』が記しています。

2月19日、政子は義時に時元討伐を命じています。義時は北条家家人である金窪行親に軍勢を与えて派遣しました。22日、駿河に到着して合戦となって時元の軍勢は敗北。時元自身は23日に自殺しています。

2月29日、政子は源親広(大江親広)を京都守護に任じて送り出しています。これは時元の軍事活動が天皇家の命令(宣旨)によるものであったことと関係してるのではないかと思っています。

源親広の補任によって京都守護は伊賀光季と源親広のダブル体制ということになります。そしてこの二人は後に承久の乱によって不幸な最期を遂げることになるのです。

三寅、鎌倉へ

1219年(改元して承久元年)6月18日、三寅が鎌倉に下向しました。一条実雅(頼朝の妹婿・一条能保の子)が補佐役としてつけられました。

この時、三寅を迎えにいった御家人が『承久記』に名前が残っています。
主だった人の名前を列記します。

三浦朝村(先陣担当/兵衛尉/三浦義村長男)
三浦胤義(演:岸田タツヤ/左衛門尉/三浦義村弟)
佐原盛連(左衛門尉/三浦氏庶流・佐原義連の子)
佐原家連(左衛門尉/盛連弟)
天野政景(左衛門尉/天野遠景の子)
天野光景(政景の子)
八田知重(左衛門尉/八田知家の子)
結城朝光(演:高橋 侃/下野小山氏庶流/結城氏初代)
長沼宗政(演:清水 伸/下野小山氏庶流/結城朝光の兄/長沼氏初代)
千葉胤綱(後陣担当/千葉介)

大河ドラマの残り3回。果たして「どこまで描き切るのか」が興味深いですね。

北条政村の登場

この終盤残り3回を前にして、またしても新しいキャラクターが登場しました。義時四男・北条政村です。

北条政村(演:新原 泰佑)
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ここで義時の子供たちについて改めて整理したいと思います。
出てこない人も含めて、以下の通りになっています。

北条泰時(演:坂口健太郎/太郎/母親は八重/北条得宗家二代)
北条朝時(演:西本たける/次郎/母親は比奈/名越流北条氏初代)
北条重時(三郎/母親は比奈/極楽寺流北条氏初代)
北条有時(六郎/母親は伊佐氏/伊具流北条氏初代)
北条政村(演:新原泰佑/四郎/母親はのえ/政村流北条氏初代)
北条実泰(五郎/母親はのえ/金沢流北条氏初代)
北条時尚(七郎/母親はのえ/出家)

政村は現時点の義時の正室の長男です。
なので、「のえ」が政村に北条家の家督を狙わせるのはある意味当然かもしれません。

以前のエントリーでも書きましたが、政村は鎌倉幕府の歴史において、唯一連署を2回務めた人物です。

1回目の連署は1256年(建長八年)3月で、五代執権・北条時頼の時代です。それまで連署を務めていた兄・重時が出家して引退したため、後を受けて連署に就任しています。

その後、政村が七代執権となったため、連署の職からは外れます。
政村が執権の時代は得宗家嫡男・時宗が連署を務めました。

1268年(文永五年)3月、時宗が八代執権となった際、政村は再度連署に就任しています。そして1273年(文永十年)5月に亡くなるまでその職に就いていました。

このタイミングで政村を登場させるということは、「伊賀氏の変」までやるのかという噂が流れてますが、いやー、まずないと思いますけどね。

これこれ、誰ですか、のちの伊東四郎さんとか言ってる人は(汗)。

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