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「そのてっぺんに北条が立つ」が実現した日は来たのか

2022年2月3日(日)大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第5話「兄との約束」が放送されました。

まぁ、予告の段階から死亡フラグ立ちまくりの義時のお兄ちゃん・北条宗時(演:片岡愛之助)が、まさかの善児(演:梶原善)に暗殺されるわけですが、その最期は武士として戦って死ねなかったところに悲哀を感じさせます。

北条宗時(通称:三郎/演:片岡愛之助)
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宗時の死について歴史書『吾妻鏡』にはこうあります。

又北條殿。同四郎主等者。經筥根湯坂。欲赴甲斐國。同三郎者。自土肥山降桑原。經平井郷之處。於早河邊。被圍于祐親法師軍兵。爲小平井名主紀六久重。被射取訖。茂光者。依行歩不進退自殺云々。
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【現代語訳】
北条殿(時政)と四郎(義時)は箱根を通って甲斐国へ向かおうと考えました。

三郎(宗時)は土肥(神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)から桑原(神奈川県小田原市桑原)に下り、平井郷(静岡県函南町)へ向かう途中、早川(神奈川県小田原市早川)付近で伊東祐親の軍勢に包囲され、紀六久重(小平井久重)に矢で射抜かれて討ち死にしました。

茂光(工藤茂光)は、歩行困難となり自殺したようです。

『吾妻鏡』巻之一治承四年庚子

ドラマの場合はキャステイングの問題もあり、史実通りにはいかないのは常ですが、まさか武士でもない者(善児は伊東家の下人)に暗殺されるとは思いませんでした。

おまけに工藤茂光(演:米本学仁)までとばっちり食らってますし。

ということで、今回は石橋山の合戦と宗時の遺言について、語ろうと思います。

工藤茂光は工藤氏の一族で狩野派の祖

まず、宗時と一緒に善児に(一言も発する間もなく)殺されてしまった工藤茂光についてですが、彼はその姓の通り、工藤氏の一族です。

工藤氏については以前別のエントリー(【無法時代の東国】土地の横領は当たり前)で書きましたが、その時出てきた工藤祐隆の三男が茂光にあたります。簡単に書くと下記の通りです。

父:工藤祐隆(久須美荘領主<河津荘、伊東荘、狩野荘のすべて>)
嫡男:伊東祐家(早世) ー 伊東祐親(河津荘相続/演:浅野 和之)
次男→嫡男:工藤祐継 ー 工藤祐経(伊東荘相続/演:坪倉 由幸)
三男:工藤茂光(別家を立てて、狩野荘を相続)

なので、茂光は工藤祐経の叔父さんにあたります。
茂光は父・祐隆が存命中から狩野荘(狩野川上流の牧之郷および伊豆市大平柿木付近)を譲られ、別家を興していました。

西暦1170年(嘉応二年)、保元の乱で伊豆大島に流罪に処された源為朝(義朝弟/頼朝叔父)が伊豆大島一帯を実効支配(横領)する事件が起きました。
茂光は急ぎ上洛して朝廷より討伐の許可を得、伊東、北条、工藤の連合軍で為朝を討っています。

この時、すでに伊豆の地方役人として活動していたことがわかっているので、そこから推定すると茂光の没年齢は35歳から40歳くらいだったのではないかと思われます。

なお、茂光の子・宗茂より代々「狩野介」を通称とし、姓を狩野に改めています。以後、室町時代後期に伊勢宗瑞(北条早雲)が狩野城を落とすまで、狩野荘を支配しました。そしてその子孫は絵師となって狩野派を興します。

頼朝の言ったもん勝ち

源頼朝らはドラマの中では、伊豆国の代官である山木兼隆を討ち取った後、悪人から土地を没収するやり方で、頼朝の地域支配を正当化しようとします。

この時、宗時や義時が挙げたのが「ウマ面の中原知親」でした。

中原知親が実際にウマ面だったのかどうかは知りませんが、兼隆の権威を振りかざした蒲御厨の地方官であったことは間違いないようです。

『吾妻鏡』によれば、頼朝は側近・藤原邦道(挙兵の占いや山木館の図面を描いた公家)を遣わして、下記のような命令書を下しています。

下 蒲屋御厨住民等所
可早停止史大夫知親奉行事
右。至干東國者。諸國一同庄公皆可爲御沙汰之旨。 親王宣旨状明鏡也者。住民等存其旨。可安堵者也。仍所仰。故以下。

治承四年八月十九日
ーーーーー
【現代語訳】
蒲の御厨に住む住人のみなさまへお伝えします
これより、史大夫(補佐官)知親(中原知親)の政務権限を停止します。

東国(関東)すべての全ての国、庄園、については(頼朝が)命令を出すことと親王(最勝親王/以仁王)の宣旨にはっきりかいてあります。

住民さんは安心してください。
これは、頼朝の命令です。
治承4年8月19日

『吾妻鏡』巻之一治承四年庚子

いやー、言ったもん勝ちってのはこういうの言うんだろうなって思いました。

ここで言っている「以仁王の令旨」の内容は、東海道、東山道、北陸道諸国の源氏に対し、法皇に逆らう平清盛とその一族の反逆の連中を追討することしか書いてないんです。

どの文面見ても「頼朝が東国を支配して良い」などとは書いてません。
頼朝なりの博打だったと見るのが妥当なところでしょうね。

この時代「じゃあ、その令旨の中身を見せろ」とか言おうものなら無礼者扱いされて消されますから(汗)。

ドラマに出てこない3人の武士

山木兼隆を討った後の頼朝の敵は大庭景親(演:國村準)です。
なぜなら大庭景親は平家より頼朝を討てという命令を受けて、京都から本国に帰ってきていたと思われるからです。

頼朝は三浦一族の合流を待っていましたが、なかなか合流できませんでした。三浦氏の陸路を大庭および親平家の勢力が押さえていたからです。

頼朝は三浦との合流を急ぐため、軍勢を引き連れて土肥郷(神奈川県足柄下郡湯河原町あたり)に向かいます。

この時、頼朝が引き連れた主要武士の中に、下記の3名の武士がいました。

・北条時定(ほうじょう ときさだ)
通称:平六。北条時政の弟とも従兄弟とも言われます。
ドラマにはキャスティングされていない北条一族の人間です。
後にこの男は要所要所で確たる手柄を立て、最終的に京の検非違使まで出世します。

・土肥遠平(どい とおひら)
通称:弥太郎。土肥実平(演:阿南健治)の弟です。
ドラマにはキャスティングされておりません。
後に平家追討のために西国に行き、平家滅亡後、安芸国沼田荘の地頭(税務長)になります。のちの沼田小早川氏の祖です。

・大庭景義(おおば かげよし)
通称:平太。大庭景親の兄です。
ドラマにはキャスティングされておりません。
平治の乱で足に矢を受け、歩行困難となり、家督を弟・景親に譲って隠居していましたが、源氏の恩を忘れず、弟とは敵味方になっています。

3人ともドラマにキャスティングされていないので、出てくることはないのですが、今後の戦いや日本の歴史的になんらかの影響を残した3人です。

吾妻鏡に見る石橋山の戦い

1180年8月23日 頼朝軍は300騎で相模国石橋山(神奈川県小田原市)に着陣。同じく大庭景親軍が3,000騎で石橋山に着陣。別働隊として伊東祐親軍300騎が頼朝の背後に着陣しました。

同日夜、大雨が降ってきましたが、景親の背後の村々の民家が焼かれる事件が起きました。これは三浦一族の仕業でした。これを知った景親は

「明日になったら三浦が後ろから攻めてくる。そうなると厄介なので、今、戦いを仕掛けよう」

と檄を飛ばし、頼朝軍に総攻撃をかけます。
戦の勢いは景親側にあり、明け方になって頼朝軍は石橋山の裏山にあたる「椙山」に撤退しました。

この時、景親軍の中にいた飯田家義という武士が率いる6騎が景親を裏切って頼朝救援し、頼朝軍の撤退を助けています。

実はこの時、北条時政、宗時、義時の3人は頼朝とは別の集団で景親軍と戦っているので、ドラマであった頼朝が逃げた洞穴には行っていません。

椙山には続々と頼朝の味方が再集結しました。それを喜ぶ頼朝ですが、ここで土肥実平がとんでもないことを言い始めます。

「今後もこの人数で行動し、山の中に隠れてやり過ごすのは難しい。この椙山を降りれば私の領地である土肥郷に近い。私がどんなことをしてでも、10日でも1ヶ月でも佐殿を隠し通すから、一旦、ここで我が軍は解散すべきではないか」

これに頼朝もその他の武士も反対でした。
しかし実平は続けます。

「皆の言うことはよくわかる。立場が皆と同じなら同じこと言うだろう。しかし、今、ここで佐殿と別れることが、この先の未来につながる大事なことだ。皆、命を大事にして、他の策略を考えれば、今回の恥はきっと後々取り戻すことができるはず」

この実平の熱弁に、他の武士たちは涙と嗚咽を上げながらに納得しました。
そして再会を祈って、三々五々散っていったのです。

この時、北条時政、義時の二人は甲斐源氏の武田信義を頼って甲斐に向かいました。

宗時が別行動になった理由はわかっていませんが、方角から察するに北条庄を守るために戻ろうとしたのではないかと私は思います。

土肥実平は嫡男・遠平、親戚の土屋宗遠岡崎義実らと共に頼朝が逃げ込んだ洞穴の警備を固めていました。

そこに景親が迫ってきましたが、景親軍の梶原景時が(人の気配があることを知りながら)「この山に人の気配はなさそうだ」と景親を連れて他のところに向かってしまいました。

この後、甲斐に向かったはずの時政が頼朝と合流します。時政は甲斐に向かう途中で箱根権現別当の行実の弟・永実と出会いました。永実は行実より「頼朝に弁当を届けよ」という命令を受け、頼朝を探していました。時政は永実と出会ってそれを知り、頼朝と引き合わせるため、再び椙山に戻ったのです。

行実は、父・良尋が義朝の庇護を受けていた事から源氏に恩義を感じておりました。頼朝が伊豆に来てからも頼朝の身を案じており、今回の戦で敗北したことを聞き、急いで武術の心得のある永実を使者に派遣したということでした。

頼朝は永実を案内人に箱根権現別当・行実の援助を受け、土肥実平のおかげで土肥郷に到着。そこから再起を図りますが、至る所に景親の軍勢がひしめいていて、動くことが不可能でした。

しかし、海路にはなんの手当もされていませんでした。

頼朝は実平とともに船で安房に逃れました。
また頼朝の味方の武士たちも同じように安房に逃れました。

そしてこの安房の地から大逆転が始まります。

宗時の遺言

宗時は義時に対し「お前にだけは言っておく」と前置きした上でこう言います。

宗時「俺はなぁ、実は平家とか源氏とか、そんなことどうでもいいんだ」

義時「……兄上」

宗時「俺はこの坂東を、俺たちだけのものにしたいんだ。西から来た奴らの顔色を伺って暮らすのはもうまっぴらだ。坂東武者の世を作る。そしてそのてっぺんに北条が立つ。そのためには、源氏の力がいるんだ。頼朝の力が、どうしてもな。だからそれまでは、辛抱しようぜ」

『鎌倉殿の13人』第5話「兄との約束」41:00頃

宗時が単なるお調子者ではなく、先の世を夢見て行動していたことがよくわかる一節だなと思います。

この夢を継承した義時は、頼朝を盟主と頂いた東国政権を支えることで、坂東武者の政権を樹立します。その政権が合法的な存在(鎌倉幕府)となった後は、有力御家人を次々と排斥し、ついには「執権」という実務の最高責任者にまで上り詰めます。

しかし、それでも北条家という家格の低さから、将軍職に取って変わることはできませんでした。

北条家は嫡流である得宗を筆頭に、

名越流(義時次男・北条朝時が祖)
極楽寺流(義時弟・北条重時が祖)
政村流 (義時弟・北条政村が祖)
金沢流(義時弟・北条実時が祖)
大仏流(義時弟時房四男・北条朝直が祖)
佐介流(義時弟時房長男・北条時盛が祖)


という一大分家勢力をもちます。

しかし、嫡流である得宗(義時の家系)が重んじられながらも、将軍権力を代行する地位まで上り詰めるのは、八代執権・北条時宗の時代になります。

西暦1277年(建治三年)6月16日の『建治三年記』に

「この日、『諸人官途の事』は今後、評定での審議を中止し、『御恩沙汰』に準じ直接お聞きになり、『内々』に判断なさる」

『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(吉川弘文館)P107


という記述があります。

『諸人官途の事』は、御家人を官職に推挙することで、当時は鎌倉将軍の固有権力の1つです。また『御恩沙汰』御家人に領地を与えること(新恩給与)で、これも将軍固有権力の1つです。

よって、この日を境に時宗(執権)が将軍固有権力の一部を執行することが可能になったことを示すものになります。他の鎌倉御家人とは一線を画する存在になったと言えましょう。今回の第5回から97年後のことです。

なお、朝廷が北条家を別格(執権の相模守任官は臨時の除目として発せられ、北条家の人間は無位無冠でも四品以上の待遇を受ける)に扱い始めるのは、1301年(正安三年)頃で、第5回から121年後のことでした。

こう考えると、宗時の遺言はとても長い月日がかかる重いものだと言えるかもしれません。


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