2022年9月18日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第36話「武士の鑑」が放送されました。
「畠山重忠の乱」のメイン回であると共に、北条時政凋落の始まりです。
日本史学界はいい加減、この「畠山重忠の乱」と「比企能員の変」の呼称を変えるべきだと思っています。だって、両方とも実態とあってないですもの。
「比企能員の変」は「比企能員暗殺事件」
「畠山重忠の乱」は「逆恨みの変」
で良いのでは?
それではいきます。
畠山重保の死
ドラマでは北条時政(演:坂東彌十郎)は将軍・源実朝(演:柿澤勇人)に畠山重忠追討の下文にメ◯ラ判を押させました。
これで畠山追討への大義名分ができました。
時政は畠山を仇としている三浦義村(演:山本耕史)と和田義盛(演:横田栄司)。そして娘婿である稲毛義成(演:村上誠基)を政所に集めて対策を協議します。
義村や義盛にとってなぜ畠山が仇なのか。
それは、石橋山合戦の際、畠山重忠が三浦の衣笠城(横須賀市衣笠町)を攻めて、義村、義盛にとっては祖父にあたる三浦義明が討死したからです。
※ただ、このドラマでは畠山が大庭に味方したのは、義盛の勘違い攻撃が原因になってますが。
時政は手始めに重忠嫡男・畠山重保(演:杉田雷麟)の身柄を確保することにしました。
これは吾妻鏡に記載されています。
1205年(元久二年)6月22日 のことです。
ドラマでは時政は「殺すな」と言っていましたが、『吾妻鏡』では最初から殺す気満々です。ま、どっちにしろ同じことなんですが。
三浦胤義
今回初登場のキャラクターは三浦胤義です。
三浦胤義は三浦義澄(演:佐藤B作)の九男で、義村の弟になります。
今回は顔出しレベルですが、後の「承久の乱」では重要な役どころを演じます。覚えておいていただきたい人物です。
時房の正論とりくの僻み
前回のドラマのラストで義時が重忠に「鎌倉に戻って鎌倉殿に起請文を書いてくれ」と言ったため、重忠は武蔵から鎌倉に向かっていました。
しかし、それは戦いをするためでないことは義時が一番わかっています。
ただ、義村と義盛が重保を殺害した以上、重忠にとって鎌倉は子の仇になりました。
この時の義時と義村のアイコンタクトが接妙でした。
言うなれば
義時「おまえ、わざとやったな」
義村「こうなるより仕方なかったんだよ」
的な感じですかね。
トキューサくん、よく言ってくれました。
おそらく全視聴者の気持ちを代弁してくれた一言だったと思います。
しかし、それをりくは全く違う次元の思考で切り返しました。
ここまでくるともう言いがかり以外の何物でもないですね。
さすがのトキューサくんも
「このヒト何言ってんの?」
と怪訝な顔をしていましたし。
これ、ドラマの創作と思われるかもしれませんが、実は『吾妻鏡』にベースとなる話があるんです。
前回のエントリーで、時政が義時と時房に畠山討伐を謀ったことを書きましたが、その日の晩のことです。牧時親(演:山崎 一)が牧の方(りく)の遣いとして義時の館に向かい、こう言うのです。
牧時親、みなさん、覚えているでしょうか?
りくの兄で、頼朝の愛人・亀の前(演:江口のりこ)を「後妻打ち(うわなりうち)」にして、頼朝の怒りを買い、髷を切られた人です。
『吾妻鏡』によれば、その後も時政の家人として動いていたようですね。
義時の決断
そんなトキューサくんととりくのやりとりをしてる最中、泰時が「重忠が鶴ヶ峰に陣を敷いた」という一報を届けます。それを聞いた時政は苦渋の表情を浮かべます。
とりくが言いかけた時に、時政がキレました。
「それ以上、口を挟むな!!腹を括った兵がどれだけ強いか、お前は知らんのだ」
これは時政の言うことが正しいです。
しかも相手は武蔵国で最強と謳われる武蔵七党を手足のように使う畠山重忠です。下手に攻めればこちらに被害がでます。
思案の結果、義時は「自らを大将に任じてもらいたい」と時政に申し出ます。それは、重忠との間を戦闘状態にしない最後の賭けでした。
義時はトキューサを御所に戻し、時政の監視させると、出陣の準備を行い尼御台(政子/演:小池栄子)の元に出向きました。
この時、義時は重忠が死ぬようなことになれば、時政を追放する決意を固めていたと思われます。しかし、その場合、義時が神輿として担ぐのは政子になります。その覚悟をしてもらいたいと政子に伝えたのでしょう。
吾妻鏡に見る重忠の動き
『吾妻鏡』でも重忠は19日に武蔵を出発し、鎌倉に向かっていました。ただ、これは重成から召喚を受けての行動だったようです。
というのも、今回の事は時政と稲毛重成の談合から始まり、そして重成は重保を鎌倉に呼び出しました。次はその父である重忠に対して何らかのアクションがとられると考えるのが妥当です。
それゆえ、重保を謀反人に仕立てて殺害し、重忠・重保が親子で謀反を企んでいた。だからこのタイミングで父・重忠が軍勢を率いて鎌倉にやってくる。これで全ての辻褄が合うようになっていたのだと考えています。
なお、義時の軍勢が出陣する際に、三善康信の進言により400人程度の侍軍団が御所の警護についています。
和田義盛と畠山重忠
義時は対話の使者として和田義盛を重忠に遣わしました。
義盛は「いい歳なんだから、ヤケになるな」と重忠に伝えましたが、「ヤケではない。筋を通すだけです」と答えました。
「今の鎌倉は北条のやりたい放題。武蔵を我が物とし、息子には身に覚えのない罪を着せ、騙し討ちにした。私も小四郎殿の言葉を信じて、このザマだ」
「ここで退けば、畠山は北条に屈した臆病者として誹りを受けます。最後の一人になるまで戦い抜き、畠山の名を歴史に刻むことにしました」
勝ち負けではなく、物事の筋目を通す事で、身の潔白と共に秩父平氏棟梁・畠山氏の名前を残す。こう割り切った人間は強いです。
義盛はなおも「もうちょっと生きようぜ、楽しいこともあるぞ」と諭そうとしますが
「もはや、今の鎌倉で生きるつもりはない」
「命を惜しんで泥水を啜っては、末代までの恥」
と逆に諭されました。
どこぞの国の政治家に聞かせてやりたい一言ですね。
これにはさすがの義盛も「その心意気、あっぱれ」としか言えませんでした。
義時出陣
義盛が義時の陣に戻り、その言葉を伝え、義時は重忠を謀反人として討ち取ることを決めます。
なお、この時、義時に従った御家人は『吾妻鏡』によれば以下の通りです。
これに、本来は畠山が指揮権を持っている武蔵七党も義時の軍勢に加わっていたと言われます。
二俣川の戦い
ドラマの二俣川の戦いについては、あまり語るところがありません。
鏑矢で始まり、騎馬戦を経て、一騎討ちとなる流れは綺麗でした。
そして義時の刀が折れ、兜を脱ぐと、重忠も同様のことをし、お互い五分五分の条件で脇差で戦うというシーンは近年の合戦にはないものを感じました。
重忠は義時を追い詰め、命取れるところまでいきますが、そこで見逃し、立ち去ったところを愛甲季隆の矢で射抜かれたという終わり方になっています。
『吾妻鏡』では下記のようになっていました。
首実検
義時は重忠の首が入った首桶を、時政の面前に持参しました。
その際、彼はこう言いました。
このエピソードも『吾妻鏡』にベースとなる記述があります。
大江広元と義時の策謀
畠山重忠の討伐ほど、御家人たちにとって後味の悪い討伐はありませんでした。誰一人、謀反人を打ち果たしたという使命感もなければ、鎌倉の平和を守ったという達成感もありませんでした。
しかし、鎌倉殿の下文が出ている以上、御家人に拒否権はありません。
またこれが北条政範の死に関係しているので、時政が暗躍したのも容易に推測できました。
大江広元(演:栗原英雄)はその御家人の怒りの矛先を、誰か一人に向けることを義時に提案します。そこで義時が選んだのが稲毛重成でした。
自分の身を守るために、自分の娘婿の命を取る。
これほどエゲツないことが他にありましょうや?
時政の内諾を取った義時は、八田知家(演:市原隼人)を使って御家人の間に「今回の一件は稲毛重成の讒言が原因」と触れ周り、長沼宗政(演:清水伸)らを焚きつけました。
宗政らは怒りに任せて稲毛重成を捕縛して幽閉します。
そして義時はその重成の始末を三浦義村にやらせました。
「執権殿の命令」ということにして。
これによって長沼宗政らから見れば「執権殿は自分の保身のために稲毛重成の口封じをした」としか見えません。これが義時の狙いでした。
ちなみに『吾妻鏡』にはこうあります。
尼御台、表御台に立つ
義時は畠山重忠の遺領の分配を尼御台に託しました。
これは『吾妻鏡』元久二年7月8日の記述がベースになっています。
義時と広元が尼御台に畠山遺領の采配をお願いした席で、尼御台は義時に言いました。
尼御台が実朝の後見役としてその存在感を表に出すことになった瞬間ですね。
義時、時政を抑え込む
畠山重忠討伐の一件、ならびに稲毛重成見殺しの件は、時政を糾弾する御家人の声を多くするだけでした。やがてそれは訴状となって義時の元に届き、それを義時は時政に見せます。
時政としては、これほど義時が邪魔なことはなかったでしょう。
尼御台によって恩賞の沙汰が行われ、時政は蚊帳の外に置かれました。
これで終わる時政ではありません。
彼が使える駒はまだあったのです。
二代執権の片鱗
これまで義時が、北条家以外の他人に対してマウントを取るようなことはあまりなかったのですが、今回は明確にマウントを取るようなところが2ヶ所ありました。
1つは、大江広元、八田知家、義時の3者が、畠山討伐後の御家人の怒りや不満をどう処理するかを協議している際です。
義時が広元や知家に向かって、命令するかのような言い回しをしたのは初めてではないかと。
もう1ヶ所は、稲毛重成を殺害して報告をしにきた三浦義村に対してです。
前回、無二の親友と言っていた義村に対して「退がって良い」というのは明らかに上位権者が下位のものに対して使う言葉です。
いまだ幕府の役職をなに一つ持たない義時が、義村にこのような言い方をするのは不自然です。
しかし、これが二代執権への布石だとすれば、わかるような気がします。
それにしても……頼朝が亡くなったのは1199年(建久9年)2月です。
劇中の時期は1205年(元久二年)7月です。
たった6年のうちに
梶原景時
比企能員
源 頼家
北条政範
畠山重忠
稲毛義成
この6人が殺害されています。
どれだけ凄まじい時代だったか、よくわかるというものです。
畠山重忠は前回言いました。
これが義時には深く刺さっている一言だと思います。
重忠は義時を命を取れるところまで追い詰めました。そこでトドメを刺さなかったのは、重忠にとって義時が「鎌倉の中にある唯一の希望」の存在だったからではないかと思っています。
ここで義時の命を奪ったら、鎌倉の希望を消してしまうことになる。
それは自分達が作ってきたこの鎌倉政権がすべてが無駄になってしまう。
自分達は死に行く運命に変わりはないが、義時を生かすことが残された人たちのためになることなら、それは重忠だけでなく畠山の誇りと言えるものではないかと思いました。
そのメッセージがあったらからこそ、討伐終了後の義時は、実の父親を騙してまでも政治的に陥れるという荒技を使ったのだと思います。