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風雲急を告げる鎌倉

2022年10月23日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第40話「罠と罠」が放送されました。

和田合戦の直前までの模様が描かれております。

正直、見終わった後の感想は「こう来たか〜」でした。
正体のよくわからない泉親衡(演:生田斗真?)を朝廷の策謀とし、なおかつ北条義時(演:小栗旬)和田義盛(演:横田栄司)の衝突を源実朝(演:柿澤勇人)尼御台政子(演:小池栄子)ダブル権力で押さえ込もうとするあたりを無理なく描いていて、うまいなと思いました。

そして裏切るつもりが裏切れなくなった三浦義村(演:山本耕史)とそのゆかいな仲間たち(セクシー八田知家<演:市原隼人>と脳味噌筋肉長沼宗政<演:清水 伸>)の行く末はどうなるか。
まぁ、だいたい予想はつくのですけどね……

それでは今回もいってみましょう。

泰時の任官と鴨長明の鎌倉訪問

1211年(建暦元年)9月8日、北条泰時(演:坂口健太郎)は修理亮(通称:匠作)に任官しています。泰時、初の任官です。

それと、本編とは関係はないですが、1211年(建暦元年)10月13日、鴨長明飛鳥井雅経(後鳥羽上皇の近臣)の推挙で鎌倉を訪れています。

鴨長明は日本古典における三大随筆の1つである『方丈記』の作者です。
方丈記の成立は1212年頃とみられますので、ちょうど前年のタイミングですね。しかし、何し鎌倉に行ったのでしょうか?雅経の推挙ということは和歌の先生?

和田義盛、上総介任官の願いを取り下げる

同年12月20日、ドラマでは義時が拒絶したことになっている和田義盛の上総介任官の件ですが、『吾妻鏡』では当人が諦めているので、大江広元(演:栗原英雄)に出した嘆願書を撤回するように四男・和田義直(演:内藤正記)を広元のところに使いにやっています。

ただ、すでに広元が実朝に上申した後だったので「先日、御上に申し上げたばかりだから、ちょっとまずいよこれ」とブツクサ言いながら、実朝に取り次いだら

「この件はしばらく待つように言ったはず。それを今、このような申し入れ(取り下げ)してくるとは。義盛は私への上申をなんと心得ているのか」

と不機嫌になられたようです。
この感じからすると、上総介任官は政子によって拒絶されたと思っていましたが、実朝なりに義盛の願いを叶える方法を模索していたのでしょうか?

実朝、京都大番役をサボっている御家人に罰を与える

御家人の役務の1つとして朝廷を守護し御所を警護する「京都大番役」という役目がありました。もともと3年の任期でしたが、頼朝が鎌倉殿になってからは半年に短縮されたそうです。

ところが、この京都大番役を怠けている御家人が幕府で問題になっていました。で、1212年(建暦二年)2月19日、実朝が「どこの御家人が怠けているのか、報告しろ」と命じられたので、政所の役人が報告しました。

これを受けて実朝は以下の裁決を行いました。

「今後、京都大番役を命じられて1ヶ月理由もなく出てこなかった(サボっている)者は、通常の任期(半年)に3ヶ月追加する。これを諸国の御家人に通達せよ」

これを奉行(執行)するように命じられた、和田義盛、三浦義村、平盛時です。侍所別当の義盛、侍所所司の義村の名前があることから、これは侍所の仕事として命じられたと考えられます。盛時は政所の公事奉行人なので、政所としての情報共有でしょう。

このような実朝の鎌倉殿としての裁決は『吾妻鏡』には多く記載されています。「鎌倉殿は見守ってくれればいい」というドラマとは全くの真逆です。

実朝の論理的な思考

同年2月28日、三浦義村から「相模川の橋が数カ所古くなって壊れている。直したほうがいいのではないか?」との提案がでました。

この議題について、北条義時、大江広元、三善康信(演:小林 隆)らで討議をした結果

「あの橋は去る建久九年稲毛重成殿が作ったもの。この橋供養の日に頼朝様が出席されてその帰り道で落馬されて亡くなられた。重成殿も畠山重忠の事件で殺されている。あの橋は縁起が悪い。作り直さなくても問題はないのではないか?」

との結論に至り、実朝に上申しました。
すると

「父頼朝が亡くなったのは、武家の棟梁の権力者となって20年も政治を行い、官位も極められた後のこと。稲毛重成は畠山重忠を讒訴したので天罰を受けただけ。どれも橋の建立による神罰ではないだろう。これが不吉だといいうほうがおかしい。あの橋は私が二所詣(鎌倉の位置から察するに伊豆山権現)を行う要所でもある。民の往来にも不便がない。橋の利点は1つ以上のもの。完全に壊れて落ちる前に早く直せ」

と仰られたとのこと。

実朝の実利と論理的な思考が垣間見える内容です。

朝時、実朝から叱責&義時から勘当

同年5月7日、義時次男・北条朝時(演:西本たける)は実朝に叱責を受けました。
それを受けて父・義時は朝時を勘当して駿河国富士郡に追放しております。

理由は昨年、京より御台所(実朝正室)に仕えるために鎌倉にやってきた佐渡守親康という人の娘に恋をしたからです。

恋するくらいいいじゃないと思われるかもしれませんが、朝時はラブレターを出し続けても靡いてくれないから、深夜に彼女の部屋に忍び込んで、誘い出したのだそうです。

今なら住居不法侵入、婦女暴行未遂です。懲役確定です💦

閑院内裏の再建について

ドラマの冒頭で後鳥羽上皇(演:尾上松也)藤原兼子(演:シルビア・グラブ)が閑院内裏の再建を幕府に負担させることを企んでいます。

同年7月8日、在京御家人・源仲章から鎌倉に閑院内裏の再建を始めたことは『吾妻鏡』に記載がありますが、鎌倉に費用を負担させたという記述は確認できませんでした。ちょっとよくわかりませんね。

実朝の昇叙

同年12月21日、実朝は従二位に昇叙されました。

垸飯

年が明け1213年(建暦三年)となり、例年のように垸飯(将軍への馳走)が行われるわけですが、今年は昨年までのちょっと違いました。

正月一日:大江広元(前大膳大夫/前政所別当)
正月二日:北条義時(相模守/政所別当)
正月三日:北条時房(武蔵守/政所別当)
正月四日:和田義盛(左衛門尉/侍所別当)

初日と二日目に大差はない(前年は一日が義時、二日目が広元)のですが、これまで義時のお付きに過ぎなかった時房が三日目の垸飯を取り仕切っています。そして、たぶん義盛の垸飯担当は初めてではないかと。

泉親衡の乱

ドラマでは信濃国小県の武士・泉親衡が武士を集め、北条義時を討とうという計画を起こそうとしたと評議で上がりました。

『吾妻鏡』によれば、これは1213年(建暦三年)2月16日のことだそうです。

千葉成胤(千葉氏五代当主/常胤の孫)が僧侶を逮捕して、謀反の手先として義時に突き出しました。この僧侶は安念という名前で、成胤に謀反の味方になってもらおうとやってきたところを逆に捕らえられたそうです。

義時は実朝に報告すると「大江広元と協議の上、二階堂行村(行政の嫡子)に預けて詰問せよ」と命じました。

安念の自供によって謀反の一味が次々と捕らえられました。
捕らえられた主な者は134人。家来を含めると200人にも達しました。

実朝の命令で諸国の守護に捕縛の命令が出されました。事の発端は信濃国の家人・泉親平が一昨年から画策していた謀反で、二代将軍頼家の遺児を大将軍にして、義時を討とうとしたとのことです。

『吾妻鏡』建暦三年二月十六日

謀反を起こす場合はその旗頭となる人物が必要です。『吾妻鏡』はこれを頼家の遺児としています。これが何者なのかはわかっていませんが、これが和田合戦のトリガーとなった事件であることは間違いありません。

ちなみにこの首謀者である泉親衡は逃亡して行方不明になっています。

実朝と義時の昇叙

同年2月27日、実朝は正二位に昇叙されました。
また同日、義時も正五位下に昇叙しております。

義盛、一族の赦免を嘆願する

2月16日に起きた謀反の騒動の結果、鎌倉で合戦が起きると諸国で風聞(噂)が出回ったので、鎌倉には無数の御家人が集まってきました。

その中に所領の上総国伊北庄に戻っていた和田義盛も事件を聞いて鎌倉に戻りました。

3月8日、義盛は御所に上がり、実朝と面会しました。
まず昔からの武功を話し、その上で今回の謀反の咎人として息子の和田義直や和田義重(演:林 雄大)が捕らえられたことを嘆きました。

実朝は義盛の武功に免じて二人の息子の罪を許しました。
義盛は面子を保つことができ、御所から下がりました。

ドラマでは、義盛が義時に嘆願して許しを請う流れになっています。
このドラマでは実朝は飾り物とされているので、裁定は義時がする役割なのでしょう。

ただ、下記の和田義盛の言い分

義盛「どうか、俺に免じて大目に見てやってくれ。皆、本気ではなかったんだ。つい、調子に乗っちまったんだよ。戦を起こす気なんてこれっぽっちもなかった。俺が言うんだから間違いねぇって」

『鎌倉殿の13人』第40話「罠と罠」8:20から

これは一番ダメなパターンです。
本気ではないなら、なぜ他の御家人に声をかけますか?戦を起こす気ないなら、なぜ起こそうとしている人の話を聞きに行きますか?その言い分は全く道理が通りません。

そして最後の「俺が言うんだから間違いない」というのは、身内だから甘いの代名詞とも言えるセリフです。

この弁明では黒義時が相手でなくてもアウトでしょう。

さて、この翌日、和田義盛は一族98名を連れて、御所の南面の庭に座り込み、唯一許されなかった和田一族の「和田胤長(演:細川 岳)の罪を許してください」とお願いしにやってきました。

『吾妻鏡』によると、大江広元がこれを実朝に取り次ぎました。
しかし実朝は

「和田胤長は今度の事件の主犯であり、計略が成功するような動きをしていたと聞いている、許すわけにはいかない」

とこれを拒絶しています。
さらに義時は胤長の身を二階堂行村に預け、厳しく詮議あるようにと申し伝えました。

詮議の結果、3月17日、胤長の身は陸奥国岩瀬郡(須賀川市付近)に流罪となりました。

胤長は謀反の首謀者の一人であるにも関わらず、死罪ではなく、流罪となったことは和田一族による特別な計らいであると考えられなくもありません。

しかしその4日後の3月21日、胤長が逮捕されたときから病気になっていた胤長の娘が病死しました。このことだけは義時の想定外だったと思います。

義時、和田胤長の屋敷を横領する

同年3月25日、和田胤長の屋敷が義盛に与えられました。胤長の屋敷は御所の東隣(荏柄天神社の横)にあるので、将軍近侍の者にとっては欲しい場所でした。

それは侍所別当の義盛も同じで、御所女房の五条局を通して実朝に

「故・頼朝様の頃より、一族の所領が召し上げられた時、同族以外の者に与えられたことはありません。あの屋敷は宿直に便利なので、是非とも頂きたく存じます」

『吾妻鏡』建暦三年三月二十五日

と願い出てこれが許されました。

しかし、4月2日になって、この屋敷は急遽、義時に与えられることに変わりました。それでも和田義盛は文句も言わずに従いました。

この頃から義時と義盛の間は険悪な状況になっていきます。

鎌倉のため

その険悪な状況をドラマでは、二十歳そこそことは思えない実朝が自身が持つ調整能力を最大限に活かして、さらに政子の観音力(?)まで使って武力衝突を回避させることに一時は成功します。

双六をしに退出する実朝と義盛の後を追おうとする義時を政子は制止します。政子は義時の野望を見抜いていました。しかし義時はこう言います。

「鎌倉のためです」

『鎌倉殿の13人』第40話「罠と罠」36:08から

これに政子は真正面から反論します。

「鎌倉のため……鎌倉のため……聴き飽きました。それで全てが通るとなぜ思う。戦をせずに鎌倉を栄えさせてみよ!

『鎌倉殿の13人』第40話「罠と罠」36:10から

同じことをかつて畠山重忠(演:中川大志)も言っていましたね。

「北条の邪魔になる者は必ず退けられる……鎌倉のためとは便利な言葉だが……本当に……そうなんだろうか?

『鎌倉殿の13人』第35話「苦い盃」41:26から

上記の時は戦を避けるために手を尽くしてた義時ですが、今の義時は戦を待ち望んでいる。同じ「鎌倉のため」でも天と地の違いがありますね。

三浦義村、絶体絶命

義村は義時と示し合わせて、和田義盛の屋敷にいました。そこには八田知家や長沼宗政も合力していました。

屋敷では義盛の帰りが遅いことに義盛の息子たちがざわついていました。このまま挙兵になれば、『吾妻鏡』に書いてある仁田忠常の最期の時と同じになります。

しかし、義村は言います。

「先に言っておくが、この乱は失敗する。俺が向こうにつくからだ。挙兵したら寝返ることになっている。この先も鎌倉で生きていたいなら、和田には手を貸すな」

『鎌倉殿の13人』第40話「罠と罠」38:45から

ところが、巴の機転によって義村は起請文を書かされる羽目になります。
起請文は神に誓うものであり、それを破ったら全身の毛穴から血が噴き出して死ぬと言われていました(義盛はそんなヤツ見たことないと言いましたが)。

これでは裏切れません。

が、たぶん三浦は裏切ります。
それは、この和田合戦の最中に、起請文以上、もしくはそれと同等の効力のある文書が出されるからです。

私は義村が裏切るのはそこかなと思ってます。

ドラマでの振り返りはここまでですが、実際にどういう流れだったのかを『吾妻鏡』もとに振り返ってみます。

和田朝盛、勝手に出家し、遁世を企む

義盛の孫に和田朝盛という御家人がいました。実朝のお気に入りの御家人ですが、和田一族と将軍や義時との関係悪化に気を悪くして、同年4月16日に突如、家の許可も得ずに出家しました。

義盛がそれを知ったのは翌日でした。
家には1通の手紙が残されていました。

将軍への叛逆は(将軍近侍の私としては)見逃すことはできません。しかし一族に従って将軍に弓を向けることもできません。また、祖父や父に味方することもできません。何もできないなら、自分の苦しい状況から逃れるためにはこうするしかなかったのです

『吾妻鏡』建暦三年四月十七日

これを聞いた義盛は激怒して

「法体のままで構わんから、連れ戻せ!」

と和田義直に命じました。
これは朝盛が武将として優れているからだと『吾妻鏡』は伝えます。
4月18日、朝盛は義直に連れられて鎌倉に戻ってきました。

朝盛の出家の理由にある通り、義盛はこの段階で謀反する気マンマンだったのが見て取れます。

やがてそれは実朝の耳にも入りました。

臨戦体制

4月27日、実朝の使いとして、宮内兵衛尉公氏なる者が義盛の屋敷を訪れています。実朝の耳にも義盛の謀反の噂が聞こえてきたためです。

公氏が将軍の言葉を伝えると、義盛はこう言いました。

「故・頼朝様の時代に私は多くの手柄を立てました。そして受けた恩賞はわ私の身分を越えるものでした。あれから20年も経っていないのに、その報恩の影響がなくなってしまったことを恨んでおります。嘆くことは多々ありますが、私の嗚咽など天には届きません。自分の不運を呪います。この上、謀反の企てとかあり得ません」

『吾妻鏡』建暦三年四月二十七日

公氏は義盛の言葉を受けて御所に戻って実朝に報告をしました。
しかし、その報告の最中に義時が入ってきて

「鎌倉在住の御家人に召集をかけました。和田左衛門尉(義盛)の謀反が確実となってきました。しかし、まだ甲冑をつけるまでには至ってない模様です」

『吾妻鏡』建暦三年四月二十七日

と言うので、今度は行部丞忠季が使者として義盛の元に遣わせました。
忠季は「謀反の噂は消えていない。鎌倉殿は心を痛めておられる。蜂起を止めて鎌倉殿の裁きを待つように」と伝えると義盛は言いました。

「鎌倉殿には全く恨みはございませぬ。これは相州(義時)の傍若無人の振る舞いが原因。その真意を糺さんがため、うちの若い者が議論しているようです。私が何度か諌めましたが、全く聞く耳を持ちません。皆、一致した考えのようです。こうなっては私の力の及ぶところではありません」

『吾妻鏡』建暦三年四月二十七日

こうなるともう将軍権力でもどうにも止められない状況になっていると思います。

一方、義時も戦闘準備を着々と整えていました。4月28日には鶴岡八幡宮で大般若経の詠唱。勝長寿院(鎌倉市雪ノ下)でも祈祷がなされ、陰陽師まで総動員して祈祷しています。

さらに翌日29日には、駿河国富士郡で蟄居謹慎となっていた義時次男・次郎朝時が鎌倉に呼び戻されています。

義時がどれだけこの戦いを重要視していたのか、よくわかる一面です。

さて、明日はいよいよ鎌倉最大の内乱・和田合戦です!


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