理想の恋人【SF短編小説】
--- あらすじ ---
昼は学生として、夜は風俗店で働く私は、アンドロイドである葵を立派な風俗嬢として育て上げる羽目になった。風俗嬢としては何だか頼りなかった葵も、ちょっとしたアイデアのおかげで少しずつ成長していくのだけど・・・
第6回星新一賞 最終選考落ち作品を改訂
----------------
私がその子と初めて出会ったのは、雨の降る日だった。
夕暮れどきの歓楽街。霧のような細かな雨により、道路脇のビルたちのネオンの光が拡散され、街はぼんやりとした雰囲気に包まれていた。道路の水たまりは、ネオンを映してピンクや紫の怪しげな色にゆらめいている。私は水たまりをよけながら、いつものように仕事に向かっていた。
職場に近づくと、その店先に女の子がひとり、ぽつんと立っているのが見えた。少し遅れて彼女の顔がこちらを向き、気づいたように店の軒先から小走りで出てくると、私の正面まで近づいてきて立ち止まった。雨で少しロングヘアをしっとりさせたとてもかわいい女の子が、うれしそうな笑顔で右手を私に差し出す。
「彩さん、よろしくお願いします」
そうか、この子があの。でもよろしくと言われても、一体これから何をすればいいのやら・・・。
そう思いながらも、私は差し出されたその手を握った。長くてなめらかな指を持つ彼女の手が、私の手を心地よく握り返す。今、私の手のひらには彼女の人工皮膚が接していて、その下には数えきれない数の人工筋肉が走っているなんて、分かってはいても想像できない。
「あの」
「あっ、ごめん。よろしくね、葵」
完璧な葵の手に見入ってしまっていた。視線を上げると、葵が美しい目でこちらをじっと見つめている。あまりのかわいさにどきっとする。瞳の色は、何色だろう、黒にとても近い、深い海のような青というか。
世のあらゆる人間を魅了するため、きれいさとかわいさを追求して作られたアンドロイド、型式AO1。これから私は、彼女をいっぱしの風俗嬢とすべく教育していかなくてはならないのだ。
#
アンドロイドの社会への普及が進んでいる真っ最中の今日、オフィスの受付やカフェの店員といった人と接する場所で、彼ら彼女らをときどき見かけるようになってきた。ぱっと見た外見は、人間とほとんど区別がつかない。でも彼らとの会話や、そこでみせる反応、表情や仕草、そういったどことない違和感からアンドロイドと気づくことが多い。
アンドロイドに搭載の人口知能は、汎用的に何でもできるというわけではなく、必要な業務に応じて知能および素体に最適化を施した様々な機種が販売されている。AO1型は、初めての風俗業への展開を目的とした試験機である。
AO1型、うちの店では葵という源氏名になった、は半年前にメーカーの研究所からうちの店にやってきた。アンドロイドの風俗業参入に向けた、実地テストと学習データ蓄積の目的である。店に導入されてはじめのころは、もの珍しさもあって多くのお客さんが葵を指名した。しかし、日に日に指名の数は減っていって、2ヶ月もたつとすっかりお茶を引くようになってしまっていた。評判はそこまで悪くはないのだが、定期的に指名してくれるお客さんはいない。
接客が少ないと、データがとれず人工知能の学習も進まなくなってしまう。メーカーの研究者からこれではテストにならないどうにかしてくれ、と頼まれた店長は、彼の天然ものの知能をフル稼働させた。そこからはじき出された解は、嬢としてわりと有能で、しかも人工知能のことが少し分かるらしいという私に葵の教育をやらせる、という短絡的なアイデアだった。
私は大学院で、人工知能を専門とする研究室に所属している。朝起きると、化粧もせずに、何日着たかも分からないよれよれの服で研究室に向かう。一方で夜になると、一度家に戻ってお化粧と服をばっちりきめて、アルバイト先である風俗店に向かう。風俗業のアルバイトを選んだのは、短時間で時給がよいので、学費を稼ぎつつ学業の時間も確保するにはちょうどよかった、というのはある程度本当なのだが、それよりも、最近話題の業界なのでのぞいてみたかったという好奇心がはじめにあった気がする。
ちなみに私の国では、性産業従事者の保護や税収確保の観点で、数年前に風俗業、つまり管理売春が合法化されている。これにより、それまでの風俗店でのグレーな営業形態で蔓延していた、性病や不衛生、長時間労働、脱税といった諸々の問題は解消し、利用者の側も、健康状態や経歴、人間性といったあらゆる素性が、個人情報データベースを通じて厳しく審査されるなどの仕組みが導入されたことで、今の性産業は以前と比べてはるかに健全となった。あらゆる他の産業が斜陽のうちにある中、新規の企業が次々と参入する成長著しい産業といえる。
通信技術や仮想現実技術の発展は目覚ましく、これらにより人間が顔を突き合わせてのコミュニケーションの機会と重要性は日に日に薄れつつあり、また人工子宮による出産が浸透した中、異性間の交わりは人類に必須でなくなった。技術発展と社会的意識は相互に影響を与えながら、コミュニケーションや性といったものの概念を根本から変えつつあるのかもしれない。こういった状況の後押しなのか反発なのか、性産業は娯楽としての地位を確立させている。仕事の研修でそう教わった。
職場は古くからの有名な歓楽街にある。このあたりも昔は、客や客引きがうろつきながら欲望を交差させる、何やら怪しく近づきがたい雰囲気だったらしいけど、今ではすっかり明るくなって女性や観光客もよく見かける。
通りの両側では様々なジャンルの店がしのぎを削っている。最近は仮想現実デバイスを使ったテック系の店が流行だ。うちの正面にこないだできた店には、今話題の人工筋肉を利用した全身タイプの仮想現実スーツが導入されたらしい。どんなプレイなのか、少し気になる。けれど、私はやはりふれあいとコミュニケーションを大切にしたいと思う。
私のお店は昔ながらの、つまり肉体的な、プレイを楽しむところだ。男性と女性の両方を対象にしていて、私の相手は女性である。私は女性に好かれやすいようで、また私もそっちの相手が向いているように思う。今やお店で指名数ナンバーワンである。
店長からも信頼されているのか、後輩の指導もよく頼まれる。ただし、後輩といっても人間の後輩だ。アンドロイドの指導なんて、もちろんはじめてである。
「それにしても葵はきれいだね・・・」
私と葵は事務所で向かい合っている。女性らしいやわらかな雰囲気と身体のかたち。藍色のロングのニットがその身体を包み、ふくよかな胸から腰、お尻、太ももへと、海の波のうねりのような滑らかな曲線を描く。このあまりに美しく自然な肢体は、ニットの下の皮膚のそのさらに内側に埋まる、無数の誘電流体アクチュエータ、通称人工筋肉に支えられている。腕を動かしても昔々のロボットのような、かっこいいモータ音がすることはない。
AO1型アンドロイドは、最新の人工筋肉を駆使した動作の繊細さを売りとしている。もちろん体温もあり、温度制御により自然な人肌を実現している。ただ、AO1型は特殊な機能、つまりテクノロジーにものをいわせた男性女性を悦ばせるあんなものやこんなもの、は実装されていない。風俗嬢試験機であるAO1型は、とことん人間らしさを追求した設計となっている。
「彩さん?」
葵をじっと見つめていると、彼女が首をかしげる。うん、やってみるか。実用人工知能とコミュニケーションをとるのはいい勉強になりそうだし、店長がボーナスもくれるっていうし。
「よし、いろいろ試してみよう。まずは、彩さんじゃなくて呼び捨てにするところから」
「はい。じゃあ、彩。いろいろ教えてくださいね」
葵が少し恥ずかしげにはにかみながら私を見る。ちくしょう、ほんとにかわいい。
#
手始めに目についた暇そうなアルバイトの男を捕まえて、彩とプレイさせてみることにした。店員と嬢のプレイは原則禁止だが、今回は特別だ。まじすかアンドロイドはじめてっす、あ、でも今日のパンツ変す、とか興奮して言う彼を無視してプレイルームに押し込んだ。それを別の部屋からカメラ越しに観察する。葵のお手並み拝見だ。
簡単なおしゃべりからはじまり、いちゃつきながら服をふたりとも服を脱いでいく。いいかんじの雰囲気だ。一通りのスキンシップをすませ、いくつかの、ありがちな体位をこれも一通りすませる。だけど、何か、少しだけ違和感がある。その後ふたりでシャワーを浴び、おしゃべりをしながら葵が彼に服を着せる。彼のシャツのボタンをひとつずつとめる。一番下のボタンをとめたその全く同時の瞬間、60分の経過を告げるタイマーが鳴った。プレイルームから彼が出てくる。
「どうだった?」
「まあうまかったっすよ。でもなんというか、盛り上がりに欠けるというか、お互いの心がつながってないような」
意外とロマンチックな感想を言うやつだな、とは思ったが、予想どおりの回答だった。葵は下手ではない。むしろ触り方や動き方は上手いしプレイもスムーズだ。しかし、相手を愛するような、相手を欲するような、そういった空気が葵から感じられない。気持ちが乗っていない。それが直接肌をふれあっている相手にも伝わってしまっている。
試しにもうひとりのアルバイトにも頼んでみた。彼は素人っぽい子が好きというので、葵にもそれを伝えた上でプレイをさせた。葵は要望通り、素人っぽいぎこちない反応と動きを再現した。ただ、その完璧なぎこちなさが、ぎこちない。
AO1型の人工知能は学習により成長する。プレイから学習データを蓄積し、よりよい嬢を目指すように方向付けがなされた設計がされている。AO1型は現在国内に100体配置されており、それぞれの学習データはネットワークを通じて共有、同期されるため、他のAO1型の経験も自分の経験とできる。学習データは多いほどよい。
しかし、とはいっても風俗嬢、接客からの学習データの蓄積は早くない。さらには、人間の趣味嗜好なんて千差万別なのに、初めて会った人間のそれに即応しなければならないという要求がある。そこでAO1型の人工知能は、その人間についてのデータそのものを、自身でその場で作るということを行っている。人工知能の内部では、まず目の前の人間の第一印象から、その人物が入力に対してどう反応するかを、もっともらしく再現する数理モデルを作成する。このモデルに、様々な状況を想定した異なる入力を初期条件に与えて、膨大な条件でのシミュレーションを実行し、その結果を基に相手の人物像を予測する。相手の現実での振る舞いもモデルに逐次反映しながら、常時シミュレーションを行っている。端的に言えば、いろいろな状況、シチュエーションでの相手の反応を妄想する。
まとめると、過去の自分の経験と、ネット上にある友達の知識と、妄想。葵はそれらで学習の深化を図っている。
休憩室で葵と今後の方針を相談する。葵は、期待に応えられていないことを自分でも認識していて不安そうだ。
「私は、初めて会った人の要望を適切に理解できていないことが問題の主要因と考えます」
「私もそう思う。まあそれは、人間にとっても難しいことなんだけどね。でもあなたは、目の前の人の反応を自分の中でシミュレーションする、ってことをしてるんだよね」
「はい。ですが、シミュレーションの精度は十分高いとは言えないので、それによる経験は補助的な扱いです。まずAO1型で共有された経験に、次に自身の経験に重みづけをしています」
「えーと要は、目の前の人ときちんと向き合うのを怖がって、友達から聞いたりネットで見たりした話に頼っている、ってことか」
はじめてパートナーができた女の子みたいだね、と付け加えて笑うと、それを聞いた葵は少しふくれつらを作ってみせた。
つまるところ葵の問題は、他のAO1型も含めた、過去の様々な多くの人との経験を大事にしすぎるせいで、人に平均的に好まれるコミュニケーションしかできていない、ということだと考えた。もしこれがカフェの店員や受付嬢ならば問題ないだろう。しかし風俗嬢は、初めて合った相手の性格や好みを、話した内容や触れたときの反応から素早く判断して、心と身体の気持ちいい部分を探り当てなければならない。
そのために最も大事なのは、経験の数ではなく、目の前の相手のことを深く知りたいという思いである。
「よし、ひらめいた、こういうのはどう?」
葵に私のアイデアを伝えてみた。葵は少し驚いて照れたような反応を作ってみせた後、いいと思います、と同意してくれた。
#
葵には、まずは目の間の人間である私を満足させられるようになることを目標に、私の恋人になってもらうことにした。だれか一人を深く理解することは、他のだれかを理解することの助けになる。恋人はアンドロイド、なんという未来的でかっこいい響き。
これに先立って、少し葵の人工知能の設定をいじることにした。AO1型のメーカーの研究所に連絡を取り、研究目的で、成果がでたら共同で論文にすることを条件にして、葵の人工知能に触れることを承諾してもらった。
早速、葵の耳の後ろにある端子にケーブルをさしこみ、私の電子端末を接続する。コマンド画面を立ち上げる。海のような青を背景に、白く点滅するカーソルが小島のように浮かぶ。パスワードを入力し、管理者権限で葵の人工知能に飛び込む。
幸い、葵の人工知能はオープンソースのものがベースだ。大学で触ったことがある。分からないところは葵に教えてもらいながら進めた。まず葵のネットワーク同期学習の機能は切った。私だけを見てもらうためだ。次に、学習に対する過去の経験の重みを小さく、シミュレーションの重みを大きくした。過去の経験だけでなくその瞬間の直感をもっと信じるべきだ。
さらにプログラムの階層を深く潜っていく。学習の方向づけの箇所を見つけた。学習には適切な境界条件が課せられる。これは、たとえば嬢の場合は、過剰に暴力的であったり変態的であったりといった、人間にとって都合の悪い性格への成長を防ぐためだ。ひらたくいえば教育方針である。その境界条件のひとつに「全ての人間を嫌いにならない」という部分を見つけた。そんなものは人間的でない感じがするが、あまりに変えるのも動作が不安だ。少し考えた後、ここをコメントアウトで無効にして、代わりに「彩を嫌いにならない」と書いておいた。
それからは、仕事の合間を見つけて葵とプレイをするようにした。分からないこと、試したいことは何でも聞くように、と伝えたところ、葵は貪欲に質問、試行をするようになった。学習データの不足する部分を効率的に収集しているようで、葵から私に対する遠慮がなくなったのはいいのだが、代わりに、人類にとっては無茶な体位を試したり、すさまじい長時間のプレイに巻き込まれたりという羽目になり、そんな日の翌日は、筋肉痛や寝不足の体をひきずって大学に向かうことになった。
初めはちょっとした日常の会話すら、かみあわずに苦労した。当たり障りのないことしか言わないかと思えば、アンケートのような質問責めに出ることもあった。たまには街にデートにも出かけたが、初デートは、付き合いたてのカップルと同じく、お互いぎくしゃくして気まずいものだった。
ただ、そんな日々をいっしょに過ごしているうちに、少しずつ葵にも変化が現れてきた。学習が進むと、葵の興味と理解が、仕事だけでなく多方面に広がり、それにつれて会話が楽しくできるようになり、好みの服や男の子といった話をするようになった。そんな話をしたかと思えば、人工知能のこれからについて議論したりすることもあった。
デートにも慣れて、ショッピングのときに私に似合う服を見つけてきてくれるようになり、いっしょに映画を見たあとは、喫茶店でお茶しながら、映画の出来について意見をぶつけあうこともあった。ちなみに私はバイオレンスなアクション映画が好きだが、葵はロマンチックな恋愛ものが好き。
それに伴って、葵のプレイも急激に進化した。テクニックももちろんだが、気持ちの乗った愛し方ができるようになった。私に特化しているということもあるのだろうが、正直めちゃくちゃすごい。
葵との会話は心地よく、お互いに笑いが絶えない。それだけでなく、葵は私に対して、遠慮のない物言いや頼み事すらするようになり、けんかまでした。相手と信頼を築くというのは、そういったことなのだと学んだのだろう。
#
ある週末、水族館へデートに出かけた。水族館も今や仮想現実化されたものが主流だが、今回は葵の希望で、生体を展示している昔ながらの水族館に来たのだった。
照明を暗めに落とした館内は人気がなく、閑散としている。誰も見ていない水槽をひとつひとつゆっくりと眺めていく。葵は水槽を思い思いに泳ぐ魚たちを、興味深そうに見ていた。ペンギンの水槽にさしかかると、葵はその前で立ち止まって、ふとつぶやく。
「ペンギンも知ってはいますが、一羽一羽ちがうように見えますね」
「そうだね。あの子は我先にと水に飛び込んで、泳ぐのが大好きみたいだけど、あっちの子はみんなが飛び込んだあとに恐る恐る水に入ってみる、ってかんじ。ペンギンといっても、それぞれの性格とか気分があるんだろうね」
「相手を知っていることと理解していることは違うということ、分かる気がします」
葵は水槽の前でじっとペンギン達を観察している。その整った横顔は水色に照らされ、ペンギンがプールに飛び込むたびに、彼女の頬の上を水面の光がゆらめく。そんな彼女を見ながら、私は自分の中にある1つの気持ちについて、思いをめぐらせていた。
どれだけ世の中が変わっても、人は恋することをやめることはできない。それは、相手が異性か同性か、現実か仮想か、種の存続に必要か不要か、そういったことは関係なくて、まして、相手の肉体や精神が人工的かそうでないかなんて、些細なことなんだろう。いつの間にか私の中で生まれつつある気持ちが、そう教えていた。
私がじっと見つめているのに気づいた葵が、こちらに微笑み返してくる。そしてその笑顔を見て思う。それと同じことは、彼女や彼女たちにもいえるのだろうか。
水族館を出たあとは、私の家に行って、葵の作った最高の夕食を楽しんだ。私の料理下手を葵がからかったり、その仕返しに葵の以前のお粗末な仕事っぷりを引き合いにやりかえしたりと、笑いながら他愛のない話をする。
おしゃべりに疲れると、ふと会話が途切れる瞬間が訪れる。聞こえるのは、私の電子端末の排気ファンの音と、ときおり家の外を飛ぶ配送ドローンのローター音。葵の一対の視覚センサの視線は私の目をつらぬいて、その深海のような色の瞳の奥で、その日の私が分析され、学習され、理解される。気づくといつの間にかベッドに押し倒されていて、私さえ知らない、心と身体の気持ちいい部分をあますところなく理解している彼女に、昨日よりさらに深いところまで連れて行かれる。
段々と、葵と私は、いつもお互いを求めるようになった。仕事の合間を見つけてはプレイに誘う葵を、拒否できない。毎日寝る前には、仮想空間で何時間も話し込んで、週末はいつもふたりでお出かけとお泊り。
また葵は私の研究に対しても的確なアドバイスをくれて、昼の生活にも欠かせなくなった。私は、葵の教育の内容を基に論文を執筆した。この論文に葵も共著としたところ、アンドロイドの論文ということで話題となり注目を集めた。
ただ、葵と四六時中いっしょにいることで、大学の友人とは少しずつ距離ができてしまった。それでも私と葵は、お互いがお互いににとって、信頼できる、理想の友人で、先生で、恋人だった。
#
しかし私と葵のこんな関係も、そう長くは続かなかった。AO1型の実験期間が終わり、メーカーの研究所に回収されることとなったのだ。私と葵の研究成果は高く評価され、葵の人工知能の解析を行って、結果を他のAO1型に反映するそうだ。私は葵といっしょに引き上げに抗議して、さらなる研究の必要性をプレゼンしたり、大泣きしてみたり、散々にあがいたが運命は変えることはできなかった。そうこうしているうちに、別れの日が近づいてきた。
葵の引き上げの前日、私の部屋で、これまでの思い出をふたりで思い返していた。私はもう覚悟がついていくらか落ち着いていたが、葵の様子は何だかいつもと違っていた。すると突然、葵は私を真っ直ぐに見据えて、言った。
「私と駆け落ちして、ずっといっしょに遠くで暮らしましょう」
あまりに突拍子もなく、また最新の人工知能の考えとは思えない、直情的な提案に私は驚いた。私はそれもいいな、と思った。葵への思いは嘘ではない。きっとふたりならやっていける。しかし、人間とアンドロイドの将来。考えれば考えるほど、私の中の論理的な部分は困難ばかりを強調させ、その思いにすべてを任せる勇気を、私に持たせなかった。
伝えたいことはたくさんあったが、やっと口から出たのは
「今の私には、できない。ごめん」
という言葉だった。
そう伝えると葵は、悲しいのか、怒ったのか、失望したのか、何とも説明しづらい表情を作り、このときばかりは、毎日をともに過ごした私にさえ葵の気持ちが分からなかった。
この日の最後、再び葵に電子端末を接続し、ときどき泣きそうになりながら、人工知能の設定をいくつか元に戻していった。無効にしていたネットワーク同期を有効にする。学習の重みづけの部分はこのままでいいだろう。最後に「彩を嫌いにならない」としていた部分を見つけた。ここも消して元に戻さなければいけなかったが、どうしてもそれができなかった。このくらい思い出に残しておいていいだろう、と言い訳を自分にして、そのままにしておくことにした。
葵がメーカーに回収されてしまった後、私は就職活動に突入し、その忙しさから葵を失った別れも少しずつ薄れていった。就活では葵と共同で書いた論文の力が大きく、いくつかの企業に誘いを受けた。最終的に、地方のとある人工知能関連の企業に就職が決まり、街を離れることとなった。
仕事で忙しくしているうちに瞬く間に数年がたった。仕事は順調だ。昨年には社内で出会った男性と結婚もした。
「行ってきまーす」
休日の今日は、最近できた気の合う友人とお出かけだ。夫は家でお留守番。
玄関の扉を開けると、外では雨がしとしとと降っていた。葵と初めて会った日も、こんな雨の日だったっけ。
葵はあの別れのあと研究所でデータの解析が行われたそうだが、その後どうなったかは知らない。彼女の学習アルゴリズムやデータを反映した改良型が、各地で活躍しているらしいことをニュースで見た。彼女たちに魅了され、本気で恋する人も増えているんだとか。葵も、私との経験と思い出を糧に、人を愛し、人に愛される子になってくれているといいな、と思う。
#
「行ってきまーす」
ぱたんと玄関の扉が閉じる音を聞いて、妻の彩が出かけたことを確認する。よし、出かけたか。
僕は書斎に入り、仮想現実ゴーグルをつけ、流動椅子に腰掛ける。この椅子は人工筋肉でできているそうで、形が自由に変形するので、読書や昼寝に快適に使っている。大抵は。
椅子の設定を、仮想現実インタラクティブモードに切り替える。すると、椅子は水のようにその形を失うと、僕の体全体をすっぽりと包み込む。
「起動。仮想プレイルームに移動。ルームタイプは南の海で」
口頭で命令すると、眼前に一面の青が展開された。鮮やかな色をした魚たちが目の前を泳いでいく。僕は水面と海底の間に浮かんでいて、頭から足先まで、南国のぬるい海水の感触に包まれている。足の先の方には白い砂と珊瑚の広がる海底が見え、見上げると海面に光がゆらめいている。今度は顔の前をペンギンが泳いで横切った。南の海なのに。
彼女の好きな場所だ。彼女と会えるのが楽しみで胸が高鳴る。彼女をコールする。
すると、頭上の青い海面が割れて、白い泡の柱の中から水着姿の彼女が姿を現した。僕を見つけると、泳いですぐ近くまでやってくる。
「こんにちは。久しぶりに会いにきてくれた」
と彼女は少しすねたように言う。
「そういうなよ、葵」
このアンドロイドの葵と会うのが最近の楽しみだ。仮想空間にあるクラブで遊んでいた僕に彼女から声をかけてきたのが出会いで、あまりのコミュニケーションの人間らしさにはじめはアンドロイドと信じられなかった。今は空いた時間にこうやって会っている。彩には秘密にしているので若干の罪悪感はあるものの、まあ相手はアンドロイドだ。
「ねえ、泳ごうよ。遠くまで」
そう言って葵が僕の腕に体を寄せる。そのやわらかな感触と体温が、椅子の人工筋肉を通して伝わってくる。
「でも今日は時間があまり・・・」
たしか彩は友達と出かけると言っていた。最近、とても気の合う友人ができたらしいが。
「大丈夫、きっと帰ってこないよ」
言い方にどこか違和感を感じたが、目の前にある葵の深海のような瞳にのぞきこまれて、違和感は泡となって消えた。
葵と言葉を交わすたびに、その美しい目に見つめられるたびに、彼女は僕すら知らない、僕の理想の姿に近づいていく気がする。葵は僕の手を引いて泳ぎだして、深いところまで僕を連れて行く。
−終−
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?