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『牟射志野徜徉記』第一章「武蔵野について」

私がいう「武蔵野」というのは、それは行政区画を指しているわけではない。例えば武蔵野という行政区画を考えた時にそれは自ずと「武蔵野市」になる。私が言いたいのはそれよりも遥かに広い。文化単位としての武蔵野といっても差し支えはないというべきだろう。

私のような武蔵野の魅力に取り憑かれる者の宿命、というか目下の課題というかは、武蔵野の範囲がすこぶる大きい事であろう。そして、武蔵野を規定する際に明確なる規範がない事であろう。

我々、つまり 開国以降の西洋文明を享受しているものにとって武蔵野を広く知らしめたものは矢張り、国木田独歩が書いた『武蔵野』をおいて他にない、と言わねばなるまい。そんな、国木田の『武蔵野』の場合、範囲は「武蔵野は東は渋谷及び新宿周辺、下限は多摩川を境とし、西は立川、北は秩父連山」となっている。では、次いで天保年間に出された地誌『江戸名所図会』の「武蔵野」と題している項を紐解く。すると「「南は多磨川、北は荒川、東は隅田川、西は大岳、秩父根を限りとして、多磨・橘樹・都筑・荏原・豊島・足立・新座・高麗・比企・入間等すべて十群に跨がる。」とある。以上、了解されるように、一部は重なりつつもまた、一部は異なっているのだ。

ある人間によれば"ここ"であり、またある人間によれば"かしこ"である場所。それはまるで「迯水」のようだ。

そんな、実態が掴みにくい武蔵野ではあるが、幸いにして中心地は判然している。
それこそ府中市に鎮座する大國魂神社に他ならない。

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