見出し画像

大田南畝伝 花のお江戸を遊ぶ人 第一章「私と大田南畝との関わり」

第一章 私と大田南畝との関わり

大田南畝という文人を知っている同輩は多くはない。否、知っている輩はいないのだ。そう断言しても差し支えはあるまい。少なくとも、私の狭い交友関係の中で談話が大田南畝に及んだ事は未だかつてないのである。
ならば何故に、私が大田南畝なる現在においては消えかけている文人の存在を知っているのだろうか。それは、高校生の時代に遡る必要がある。

森鴎外は高校を出ていれば、誰しもが知る作家だ。授業中に半強制的に読まされた『舞姫』なんぞは、その擬古文調と書かれている情けない男像も相まって顰蹙を買う作家である。私はその様な箇所に多大な共感を覚えるタイプである。さて、彼はいかなる人か。その様な思いから、鴎外作品を通読しようとした時期が(中絶したが)あった。

鴎外漁史の史伝物ほど、退屈なるはない。これは、何も私が言っている訳ではなく最後の無頼派・夷斎石川淳が言った事である。勿論、彼はそれでも『澀江抽齋』と『北条霞亭』を大いに評価してはいるが。

彼の作品の中で最も長い小説(翻訳を除く)は『伊沢蘭軒』である。私の手元にある岩波書房より出版された昭和四十八年版の鴎外全集第十七巻では七百八十七ページであった。

さて、高校生の時、『伊沢蘭軒』を読んでいる際には大して注目してはいなかったが、次のような場面がある。

八月十四日に江戶御茶の水の料理店で、大田南畝が月を看て詩を作り、蘭軒に寄せ示した。南畝は長崎の出役を命ぜられたのが二年前であるから、丁度蘭軒と交代したやうなものである。書中には定めて前年の所見を說いて、少い友人のために便宜を謀ったことであらう。蘭軒が長崎にあつてこれに和した詩は、「風露淸凉秋半天」云々の七律である。當時南畝が五十八歲、蘭軒が三十歲であった。

(森鷗外, 1973, p. 106)


 何気なく読み流した箇所ではあるが、ともあれこれが私の大田南畝なる存在を知った初めである。
 やがて私の読書の趣味は鴎外漁史よりも荷風散人に傾いた。本格的に大田南畝を知るのはそれ以後の事である。

 荷風晩年の傑作『葛飾土産』は、彼が長い間住み慣れた麻布を戦火で焼かれ、終戦してようやっと定住できた土地、千葉県は市川市を舞台にした随筆である。例の如く市内を散策する荷風はある石碑を発見する。それこそが、大田南畝の銘文が刻まれた「葛羅之井」であった。

 私はそれを読んで初めて大田南畝がいかなる人であったのか。甚だ興味を抱いたのである。

第一章 完


是非、ご支援のほどよろしく👍良い記事書きます。