パーソナリティ障害をながめる
前回,「スキゾイドと性」という原稿を走り書きした.今回は,その続編というわけではないがスキゾイドパーソナリティ障害(病前)の筆者が「パーソナリティ障害をながめる」というテーマで何かためになりそうなことを書いてみたい.
パーソナリティ障害といえば,境界性パーソナリティー障害(通称:ボーダー)が一番有名なのではないかと考えているが,パーソナリティー障害にはA~C群の3つの分類があり,ボーダーはB群に属している.そのほか,遺伝傾向がつよいといわれるA群に属するスキゾパイタルや反社会的傾向から警戒されがちなB群に属する(通称)サイコパス,そしてC群に属する神経質な人々というのもいらっしゃる.
私はおそらく物心つく前からいわゆるスキゾイドと呼ばれる旧名:統合失調症質人格障害,すなわち現在のスキゾイドパーソナリティ障害だったようなのだがそういった診断を受けていたと知ったのが問題の10代ではなく,(37)というごく最近のことでどうしてもっと早く教えてくれなかったんだとさえ感じた.大学生のときに受診したある専門家からそういった診断を受けていたのだが,カルテ開示を頼んだ(37)のときにようやく16年ぶりくらいに知ることができたのであった.
ところで,一般にパーソナリティ障害というものは遺伝:環境=50%:50%の影響によって生じてゆくといわれているらしい.しかしそれは自分:世界の話なのか,世界:自分の話なのかというその関係の見分け方は難しい気がしてるのだが,私の感覚ではいわゆるハードの部分が遺伝だとすると,"生まれつき"といった方が卵が先か鶏が先かという点で正しいのではないかと感じている.いわば,ハードが若干ちがうがゆえに,そのおのののの環境を通して経験してきたことの入力(Input)に特徴があらわれてきて,そのような性格に後天的に変化してゆくのではないかという気がしている.実際に,スキゾイドの私は実はスキゾイドらしくない面もその自身の性格に多分に含んでいて,特に子どもの頃はいわば"チグハグ"な一面を多分に顕していたと振り返る.
遺伝の影響を50%と考えて,これを小さいとみるか大きいとみるかは人それぞれかも知れないが,私はそれがハード的な部分でそうだとするならば,影響は尋常じゃないだろうなという考えの持ち主である.発達障害の人が,敏感な聴覚を持っていたり,鈍感な共感性を持っていたりなどあるらしいが,ハードの部分が凸凹してるならそれは当然だとしかいいようがない.色盲の人が生まれつき一部の色の区別がつかぬように,ハードの部分がより多くの一般的な人と異なれば,その認識も異なって当たり前だからだ.
このように機械的に考えるのは実に私が理系的な頭を持っているからなのではあろうが,ハードの部分がより平均的な"一般的"な人々ともともと違うならば,それは修理のしようもないのだからに,それを上手に利用してゆくことを考えてゆくしかないだろう.
たとえば,スキゾイドパーソナリティ障害の人は"人に関心がない"と言われがちなのだが,正確にいえば人に関心を持つためのハードが脆弱か持っていないのではないか?また,このパーソナリティ障害の人は"孤独を好む"と言われているが,私の感覚からいうと群れて集まって楽しむこともできるが疲れるから一人で居たいという一種の快楽原則にしたがっての結果だったりする.一般的な人は,生存欲求的な意味から孤独(孤立)を避けて群れて集おうとするのだろうが,スキゾイドの人はその生存戦略がなんらかの理由でデメリットになっているのだろうと考える.私の場合は,そういった集団の中で疲弊し,またその特異な性格部分からいじめられたりしたことが結構あるので,その戦略が成立しなかったのではないかと察している.その結果,一人でいろいろなことができる,それも内向的な文化活動が得意になったという結果を齎した.考えようによっては,こういったアカデミックかつアーティスティックな活動をしている人たちはこういった孤独志向とでもいうべく,内向的な性向がどうしても出てくるし,その中には私のようなスキゾイドの人もちらほらいらっしゃるのだろう.
端的にいえば,人(集団)の中にいると自分が嫌いになってくる,そして疲れる.そういう人に無理やり人の中にいるように,人と同じことをできるように求めるのは酷だろう.もちろん,マナーや儀礼などといったものは最低限身に着けておくべきものではあろうが,わざわざ苦手な"伸びないもの"を集中的に取り組むよりも,"伸びるもの"をもっと伸ばして社会貢献するようにした方がずいぶんスッキリとしてていいものだ.
そして,とにかくそういう自分の性格に悩んだ10代ではあったが,パーソナリティ障害が発覚した今,それは自分なりの生存戦略による人生なのだと受け容れられるならば,決して自分を嫌うことなくむしろ自分をもっと好けるように暮らしを設計し,実行し,完成させてゆくことが求められるのだろうと考える.
さいごに,パーソナリティ障害は悪だとどうしても捉えがちだ.そのため,治療の対象として改善を求められることもある.しかし,「ものは使いよう」と昔からいうように,自分の性格を,その特性をもっと冷静にそしてこころ温かく見守り,フラットな視点からどうこの社会の中で活かしてゆくかを模索した方がずいぶんと健康的だろう.スキゾイドに然り,ボーダーに然り,そしてほかのパーソナリティ障害に然り……,……適材適所とその幸せな人生が求められる.
了,15min.
※本記事の著作権は陽太に帰属します.
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