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スキゾイドと性 ※R15

 最近どうも統合失調症(Schizophrenia;SZ≒スキゾイド)の陰性症状がひどくて食っちゃ寝食っちゃ寝をひたすらしていた気がする.それで,今起きたらやる気が本当に珍しく湧いていた.普段からとにかく妙にやる気がなくて,元気が出る方法なんてものを考えるなかで,そのひとつとして性(セックス)のことが昨晩頭にもたげて来たが,セックス(≒性行為)をしたからといって常に元気が湧いてくるわけでもないことは――つまり相手によるということ――流石にそういった体験も増えたおっさんの私にはもう分かり切ったことでもある.
 しかしながら今日は大変デリケートで話をするべきことではないのかも知れないが,専門家いわくセックス(≒性行為)に関心の乏しいスキゾイドパーソナリティ――全人口の3~5%にしか存在しないとある気質――らしい私が,"スキゾイドと性"についてあれこれ書いてみたいという妙な衝動に襲われている.
 ここでは性(セックス)に関して,こんなに面倒くさい変な考え方をしてる人も居るのだということについて分かってもらえれば幸いである.なお,具体的にだれとどんなことをしたということよりも,抽象的になぜそんな考えや気持ちを抱いてしまうのだろうかという点についての記述が多くなることはプライバシーへの配慮だけでなく,スキゾイドな私らしさということで許してほしい.また本当に本当に面倒くさいのだが,性(セックス)とセックス(≒性行為)の言葉の意味は分けて書いているので注意してほしい.

 時を遡れば,男の子がセックス(≒性行為)への関心を強く持ち始めるのは10代だと思われるが,私はそれに関心を持つのがおそらく人より若干遅かった.(2000)代に思春期から青年期を過ごしていた私とその周りでは,同性の男といえば猥談の類なんてものは盛んだったように思われる.だが令和の現代では,そういう話題は避けられる傾向がどうもあるし,「出会い厨(であいちゅう)」などと揶揄されて厭われる風潮さえすでに標準らしい.たった20年前後で,男女間の人間関係は大きく変わってしまった.そしてその原因は分からない.
 さて,私はそのような令和とは異をする平成の(2000)代を暮らしていたわけだが,どうもいま振り返っても周りの男らよりもそういうのに淡泊だった気がするし,嫌悪感すらあったのを思い出す.一つに私が「プラトニック・ラブ(精神的な純愛)」を志向する男の子だったからとも思われるが,それは自身のスキゾイドな気質から生じていたのではないかという気もするし,セックス(≒性行為)ではなく性(セックス)そのものに何らかのトラウマのようなものを持っていたからではないか.それはつまり広く大きくいえば"現実存在としての自分に無意識に劣等感を覚えていたから"ではないかと考えるのである.私は現実を客体化するのは得意であった――要は見える世界を言語ではなく映像で嗜む男性脳的な者だった(※関連:サイモン・バロン・コーエンの著書)――ということで,その反対の見える世界の中心に居るような映像ではなく言語で世界を嗜む女性脳的な者ではなかった(ある部分でASD傾向にも似ているSZ傾向者だった).
 見える世界で主体化する者ではなく,それを客体化する者というのはつまり現実から距離を取る性格であるということを意味する.見える世界というのは,真善美の世界ではなく衣食住の世界であり,衣食住というものは全て性(セックス)から生まれ,そしてそこに4んでゆくものでもある(※関連:私の自然哲学とその独自の易学).そこに強烈な関心(?)とともに同時に強烈な劣等感いや怖ろしさあるトラウマさえ無意識に覚えていた私にとって,それとの直接的なコミュニケーションであるセックス(≒性行為)というのはどうも避けて通るいわば自分にとって強烈に弱い,あるいは大きく勘違いしたままの領域であったことは間違いないだろう.実際に,私はその(20)代において性(セックス)ではなく愛(ラブ)への志向を非常に高めていて,愛(ラブ)についての原稿――mixi上で「愛の研究(Love Series)」というもの大量に書いていた.だが最終的に愛を突き詰めるなかで,仮想的な性の存在が浮かび上がり,私が愛ばかりを追求してきたことは半分正しくて,半分間違いであったという真実にぶち当たったのである.なんて糞真面目で,なんて奇妙で,なんて馬鹿なんだって今なら考えてしまうが,そういう人って本当にスキゾイド的だよねって今なら考えてしまう.
 当時の彼女に,暗にアセクシャルなんて指摘されていた私のような気がするのだけども,おそらくそれを正確にいえば私は性(セックス)<<愛(ラブ)への志向が強すぎたのだろうとも考える(それはまるで敬虔なキリスト教信者のように!).そしてその結果,性(セックス)を主体化するのではなく強烈に客体化してしまう罠のようなものに陥ったのであり――いわば愛(ラブ)へ偏り過ぎたことによる副作用のようなもの――その性的に奔放な時代のなかで,その現実を見つめる中で精神的に破綻したのだろうとも考えられる.
 「何難しいこと言ってんだ?グダグダ言ってないでセックス(≒性行為)しろよ!」という生物としての宿命を謳歌しなければいけないはずが,実際にしてみたら(ちょっと色々事情があって)非常に厭な初体験となってしまったのが残念で,例えるならば初めてウィスキーを宅飲みするんだったら安いト○スを飲むのではなく,せめてジ○ニーウォーカー・ブラックにしておけよという話なのである.もちろんこれは酷い例えなのかも知れないが,何ごとも初体験というものは正統な真っ当なものごとやひとを嗜んでみるべきだよと今では断言したい.
 そして,その"厭な"初体験の「厭」の部分がなにから生じたのかそれを自身に原因を求めるのか相手に原因を求めるのかということではあるが,それから統合失調症の悪性症状と服薬に苦しんでいた(20)代にセックス(≒性行為)をほとんどしなかった私が,のちにそれらの体験を増やして培った経験からスキゾイドと性というテーマを結んでゆく.

 どうもスキゾイドというのは正確にいえば,性(セックス)というよりも"俗"というものが苦手なのではないか?いわば仙人のような人物像で,そういった世俗やその雑事から離れて暮らす浮世離れしたところがあるのではないか.そういう気が自分を通してしてしまうのである.ある程度年齢を経て統合失調症になってしまった人ならともかく,生まれつきスキゾイドな気質で生まれてきてから,既に(10)代の頃に統合失調症を発症してしまうような人というのは,そういう"俗"というものが苦手なのではないか?私がおそらくそのような人物で,その辺について突き詰めて考えてゆく必要があるのではないかと以前から感じていたのだが,しかし実際には俗な物事――例えば食べ歩きや酒たばこなどいろいろ――からセックス(≒性行為)まで好きだったのである.それで,何が苦手なのかよくよく考えてゆくなかでどうも物事ではなく"俗なだけの人"が苦手ということがみえてきたのである.精神的にも肉体的にも充実していないような人というよりも,それの充実を図ろうとしない人が苦手だということに気づいてきたのである.だから,私はセックス(≒性行為)が嫌いとか苦手というよりも,それをしたいと思えるそのような相手とあまり巡り合わないということに気づいてきてしまったのである.要はだれでもいいわけではないということだ.そしてそれは友人を作るときにも同じなようで,自分が友人だと認める人が異常に少ないと以前から気づいていたのだが,私が友人だと認める友人というのは,世間一般でいう親友/恋人以上の関係の人らしく,そりゃ友人も出来ないだろうなという結論に達した.
 このように,スキゾイドとそこに横たわる性という問題よりも,本当は"スキゾイドと俗"についての問題なのであることが私のなかでようやく分かってきた.であるからに俗について,あるいは俗であることについてもう少し切り込んで,その事情や実際を見て知って同時に嗜んでゆくことがどうもその問題を解決受容してゆくためには必要なのかも知れない.しかし,それは最もスキゾイドの人が苦手とすることだろうし,人というのはその苦手とする分野や領域についてなんらかの劣等感やトラウマのようなものを持つのは致し方ないのではあるが,スキゾイドというものをすがたかたちづけてゆく上でどうしても避けては通れないものではあろう.

 いまでは性(セックス)というものは愛(ラブ)と対等で神聖なものだということが分かっている.しかし,セックス(≒性行為)というものは急に俗なものとして現れてしまうものであり,スキゾイドは性ではなくセックスがあるいはそこから生じる俗ななにかが苦手なのではないかという気がどうもして来ている.そして,本当の精神疾患の人――特に統合失調症の人のことだろうが――だったならば「経済活動はできないよ」とは一部界隈では言われていることであり,つまり"そういうことなんじゃないか"という気がしてならない.
 聖なるものごと,そして俗なるものごとそしてそのひと・・・.・・・生きてゆく上で俗なるものごとは避けて通ることはどうしてもできないのは,それは決してセックス(≒性行為)だけではなく経済活動全般をしてゆくとなるときに必要になってくるからだ.葬祭業を生業として,人の4とばかりに向き合っているスキゾイドの私にとって,人の生というものにももっと向き合ってゆくべきなのだろう.

 長文,拝読ありがとうございました. 

 

了,50min. 

※本記事の著作権は陽太に帰属します.
yohta.yingyang(at)gmail.com

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