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折々の1本 -2021年5月①-

Twitterで写真を投稿するときのキャプションを英語にしてからもうすぐ2ヶ月になります。主観的な言葉も添えないようにしてきました。

海外の人とも繋がりたいから、など様々な理由があるのですが、おっきな理由は、写真を見てくれた人が感じたこと/とらえたことが「正解」という状態にしたくなったからです。見る側が世界を感じられる投稿をする人たちに対する憧れもあります。

最近プライベートで私自身の性格的な大きな問題に気がつきました。

これは例え話ですが、女の人と1日東京散策するとして、私は「歩きやすい靴を履いて来てくださいね」と事前に連絡するタイプの人間です。

表面的には、疲れないように、お気に入りの靴が汚れてしまわないように、相手のことを思いやってるように見えます。

ただ本質的には、優しい男とは言えないかもしれません。「歩きやすい靴を履いて来てくださいね」という言葉は相手がファッションを楽しむ自由を奪っているからです。

子どもじゃないんだから、スニーカーでなければ疲れることぐらい、靴が汚れることぐらい、分かってます。それでも自身がお気に入りのものを身にまとって街を歩きたい、そして機嫌無敵の状態で感じたことをカメラで記録したい、そんな人も中にはいるわけです。

(脱線)
学生時代、授業中に読んだ『ぼくは勉強ができない』(山田詠美)の一節をこのnoteを書いている途中に思い出しました。

〈ぼくは、人に好かれようと姑息に努力する人を見ると困っちゃうたちなんだ。ぼくの好きな人には、そういうとこがない。ぼくは、女の人の付ける香水が好きだ。香水よりも石鹸の香りの好きな男の方が多いから、そういう香りを漂わせようと目論む女より、自分の好みの強い香水を付けてる女の人の方が好きなんだ。これは、たとえ話だけど〉

たしかにTPOに応じることも大切ですが、基本的に自分の好みのものを身にまとってる女の人が私は好きですね。なんの話だよ...。

自分が撮影した写真の中でも、私生活の中でも、関わる人が自由にはばたけるように、のんびりくつろげるように、少しずつ変わりたいと思ってます。

言葉を添えるか、添えないかはその人次第、でも投稿するときの考え方や姿勢の中に「自分」がいると私は考えています。

最後までご覧頂けてとても嬉しいです。ありがとうございます。

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