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好きなことを仕事にして休職するまでの話#6 休職理由といま

なが〜〜い前おき

#6にきました。やっと休職理由です。そして最終回。
ここまでも長かったし、今回の内容もとっても長い。

#1から読んでくれている方へ
ここまで読んでくれて、赤の他人の長話に付き合ってくれてありがとうございます。
今回初めて読む方へ
はじめまして、サノツキミです。#1〜5があります。めっちゃ長いです。
暇なとき、他人の話が聞きたいとき、読んでみてください。

大好きな建築の職につき、なぜ休職したのか。
そしてこれからのことをお話しできればと思います。
どうぞ最後までお付き合いください。

1年目:社会人楽しい!!

2019年春、私は設計会社に入社した。
最初の3ヶ月に電話の取り方や名刺の渡し方など、一通りの新人研修を終え、7月に配属されたのは希望していた意匠設計部だった。
#3での誓いをここで果たした。
私は設計部の部員として働くことになったのだ。

設計部に配属が決まったときは嬉しくて、恩師S先生にメールで即連絡した。お盆休みには母校を訪ね、名刺を直接渡しにいった。
「ほら設計部って書いてありますよ!」と名刺の所属部署を指差しながら。
私はかなり浮かれてたし、先生も喜んでくれた。

所属後、最初に担当したのは小修繕のコンサルタント業務だった。
簡単に言うと、小さな改修工事を1年を通して管理する仕事だ。

業務内容は様々だった。
工事予定場所の調査や改修方法の提案、図面作成、工事現場の指示、工事費の見積もり作成、業者から来た見積もりのチェック。
そしてお客様が所有する物件に劣化がないか調査する劣化診断。

(劣化診断は建物のお医者さんみたいな仕事。診断カルテを作りながら、建物の弱っているところを調べる)

業務は3つ上の先輩とツーマンで担当した。関西出身の方でとても話しやすく、奥さんと結婚したばかりでよく惚気を呟いていた。
先輩以外のチームメンバーも人柄豊かな方が多く、プライベートで交流を持つほど仲良くなった。ラーメン屋巡りしたり、登山に行ったり、バーベキューしたり…。

業務も結構楽しかった。全国各地の建物を担当するので出張が多かったのだ。先輩たちは「仕事をいかに早く終わらせて空き時間を楽しむか」という考えでスケジュールを組んでいた。
私自身も、出張のたびに目的地での観光やご飯を楽しみにしていた。

仕事のやりがいもあった。改修工事がメインだったので、建物をイチからつくる新築工事とは違い、設計も工事も短期間で完了する。
短スパンで得られる経験は1年目の私にはとても濃いものだった。同期の中で一番に自分の設計が竣工したのもちょっと嬉しかった。

比較的休日も多い会社だったので、土日は友人と観光をして楽しんだ。
大好きな建築の仕事をしてお金をもらい、土日は建築観光に行ったり、都内のおしゃれカフェに行ったり。

「大人って自由で楽しいなあ〜社会人最高〜」なんて思っていた。

友人と浅草観光
「これ映えそう!!」と言いながら買ったお団子。
可愛いし、美味しかったです。


2年目:充実感と達成感

2年目。2020年はコロナが広がった影響で、会社の業務形態は在宅勤務が主となった。だが私は担当業務上、ほぼ毎日会社と工事現場を往復していた。

入社2年目からは、長期契約の改修コンサルタント業務に就いた。
1年目と業務内容はほぼ変わらないが、工事件数と規模が段違いだった。1年に80件近くの改修工事を捌く。
照明や空調の更新だけといった工事は別部署(設備設計部)が担当することも多く、全てを私の部署が担当していたわけではなかった。
それでも、建築設計部が担当する工事件数は30件以上あった。

建築工事の担当メンバーは、私と先輩、新しく部に異動してきた主任、そして部長の4人だった。

30件以上ある工事案件のうち、私は10件ほど担当した。
担当した工事案件は、夏と冬に工事が集中していた。

春、新年度が始まると同時に設計開始。
約1ヶ月で夏工事分の現場調査と設計を終わらせ、その後の2ヶ月で業者との打合せと工事準備を行う。

夏には工事が始まり、都内複数件の工事現場と会社をはしごしていた。
夏工事が終盤に入る頃、休む間もなく冬の工事に向けて準備が始まる。

9月に調査、10月に設計、11月に業者打合せ、12月から工事。年度末の3月までに竣工(工事完了)させる。
そしてまた春の設計業務が始まる。

忙しくはあったが、先輩や上司のフォローがあり、充実感と達成感を得ながら仕事をしていた。やはり自分が考えたものや提案したものが、現実で完成するのを見るのは大きな幸せだった。

お客さんからは工事後に、「こんなに綺麗になって嬉しい、ありがとう」「利用者からも好評です」といった連絡をもらうことも多く、自分の仕事に誇りを持っていた。

「やっぱり建築の仕事は楽しいな」と、そう強く感じていた。

仕事の写真は上げられないので、
この時期から行きつけの猫カフェの写真を。
推しのわさびちゃんです


3年目:転機の10月

3年目も2年目と同じ案件を継続担当した。
忙しいながらも、充実した社会人生活を送っていた。

私の属した会社は、おそらく建築業界では「ホワイト」と言われる部類だったんだと思う。
完全週休2日、土日祝とお盆・年末年始は休み。年間休日125日以上。
有休も特に理由を伝える必要はなく、「私用があるので明日休みます」と言って休める状態だった。
もちろん業務引き継ぎや、社会人マナー報連相は徹底していたが。

そんな状態が崩れたのは3年目の秋、下期の人事異動が発表された頃だった。
チームを引っ張ってくれていた主任が別部署に異動することが決まった。そして、部署の人数が減った分、部内各案件の人員が不足し、ずっとツーマンを組んできた先輩が別案件に引き抜かれた。

私の担当していた業務は、当初の4人体制から、部長と私のツーマン体制となったのだった。

部長とのツーマン体制だったが、実質、当初みんなで分担していた仕事を私1人で担当することになった。部長は当然の如く部内の打合せに忙しく、実際に手を動かして図面を描き、現場に行って指示を行うのは私の仕事だった。

そんな状態でも、部長は丁寧に仕事を教えてくれた。
3年目後半に入っていたこともあり、自分自身も「もっと仕事ができるようにならなければ!」と必死になっていた。

実はこの頃、担当していた案件の工事件数が急増していたのだが、目の前の仕事を終わらせることに必死になり、「なんか仕事多くない?」と気づくこともなく、がむしゃらに働いていた。

現場はほぼ関東圏内のみだったが、1日3件以上の現場を渡り歩いた。
定時の勤務時間のほとんどを現場移動で使うことになり、設計図を作成する余裕がなくなった。作図業務は定時時間外に行うことになった。
(残業代は出てたよ)

会社に戻って終電まで、もしくは現場から自宅に帰って徹夜で作図。
締め切りに間に合わない時は土日を使って。
3年目で多少業務に慣れてきたとはいえ、知識や経験は未熟だった。
分からないことが出てくるたび調べながら人に聞いて、業務は先輩方の何倍もの時間がかかった。

3年目の12月、コロナの影響なのか、退職する人や休職する人が増え、人員不足がさらに加速した。時々ヘルプに入ってくれた派遣さんや後輩は、別の大きな案件に注力することになった。
私は、自分の業務を分担できる人がいなくなった。

平日は夜通しPCに齧り付き、午前3時頃に仕事が落ち着いても、寝たら起きれなくなると思い、寝ることなく打合せに行った。
金曜は夕飯を食べながら図面を描き、途中沸かしたお風呂を徹夜明けの土曜の朝に追い焚きして入った。

「徹夜明けのお風呂は気持ちいいけど、こんな生活はもう勘弁だな…」
なんてお風呂でぼーっと考えていた。

忙しい合間に幼馴染が連れ出してくれたディズニーシー
大好きなタワー・オブ・テラー
いいストレス発散になった


4年目:血と涙

少年ジャンプみたいな見出しだが、4年目を表す言葉はこれだけだ。

4年目はさらに忙しかった。
新卒入社の新人さんの教育担当と、人員不足解消のために採用した派遣さんの相談パートナーとなった。

3年目の仕事を継続でこなしながら、教育担当。これが結構きつかった。
教育担当の指示は、直接教えるよう上司に言われていたため、会社に出社する必要があった。
家でなんとか徹夜して捌いていた仕事も、手を回しきれなくなった。
彼氏の家で泣きながら仕事をしていたこともあった。

4月の中旬、わずかな体調の変化を感じ始めていた。

階段で歩幅が合わない。横断歩道の白線が眩しい。
資料の紙が眩しくて文字が読めない。
電車で座っている時の息苦しさ。
寝つきの悪さ。すぐよろけて膝を着く。

元々片頭痛を持っていたが、頭痛の度合いもひどくなった。
歩行時のふらつきが顕著になった頃、かかりつけの内科で相談した。
血圧などの異常は見られず「過労とストレスですね、心療内科を受診してみてください」と言われた。

その後仕事終わりに心療内科へ行くと、
「精神面の可能性もありますが、めまいや耳鳴りがある場合は耳鼻科で一度相談してみるといいかもしれない」
と言われ、その日の診断は終わった。

だが別の病院へ行く暇さえも、その時はなかった。
ただ、何か大きな病気なんじゃないか、という自分自身の体に起きていることへの漠然とした不安。毎夜、スマホで症状と病名を調べながら、自分自身で不安を駆り立てていった。

精神的にも不安定さを感じ始めた6月下旬、自分自身も衝撃を受ける体調の変化が出た。

その日は彼氏の家から出社しようと準備をしていた。
朝から下腹部の痛みと、少しの眩暈を感じていた。
トイレに行った時、強烈な痛みを感じた。
驚いてトイレットペーパーで拭き取ると、鮮血が滲んでいた。
便器の中を覗き込むとうっすら血の混じったようなピンク色。

ゾッとした。こんなこと漫画でしか見たことなかった。

動揺したまま、彼に血尿が出てしまったことを伝えた。
彼から「さすがに今日は休んだ方がいい」との言葉を受け、その日は部長に「血尿が出た、検査のため病院へ行く」と連絡し会社を休んだ。

その後、下腹部が痛んでいたこともあり、婦人科で症状を相談した。
結果は膀胱炎。免疫低下によるもので女性には多い、と診断を受けた。

血尿自体は原因解明できたものの、他の症状は解決していなかった。
その後、上司と部長に「体調について話したいことがあるので時間を作ってほしい」と伝えた。

自分の体調の違和感、検査歴、検査のため1週間休みが欲しい、そういったことを事前にまとめたメモを見せながら、できるだけ冷静に話した。

自分の体調を管理しきれなかったこと、
任された仕事を中断してしまうこと、
自分が感じていた負担を誰かがまた受けること…

話しているうちに、自覚していなかった自分の気持ちにも気づき、色々な感情が溢れて涙が止まらなかった。

責任感からの悔しさを感じながら、上司に気持ちを伝えたことでの安堵感も感じていた。

ずっと誰かに「つらい」と言いたかった。

不調の要因

意を決して上司に相談した時、上司と部長は「気づいてやれなくてすまなかった。仕事は気にせず、すぐに検査してきなさい」と言ってくれた。

その後、最寄りの耳鼻科で軽い検査を受け、大学病院への紹介状をもらった。大学病院では、耳鼻科と脳神経外科を受診し、MRIとCT、動体検査を受けた。

結果、体に異常はなかった。大病が隠れている可能性は無くなった。
検査結果の資料を持参し、心療内科を再び受診した。

体に異常がないことが分かり、今起きている体調の変化は精神的なストレスによるものだろう、という再診断を受け、しばらく心療内科で経過観察していこう、ということになった。

各病院から受けた診断内容によると、私の症状は以下のものが合併症状として、体調に表れているようだった。

・前庭性片頭痛
→ 頭痛発作を繰り返す疾患で、4~72時間持続する片側性、拍動性(ズキンズキン)の頭痛で、中等度~重度の強さであり、日常的な動作により頭痛が増悪することが特徴的で、悪心(吐き気)や光過敏・音過敏を伴うことも多いとされている。

https://hosono-ent.com/diseasename/1-2/

・起立性調節障害 OD(自律神経失調症)
→起立時にめまいや動悸、失神などが起こる自律神経疾患で、食欲不振や顔面蒼白、倦怠感などが表れることもある。小学校高学年~中学校の思春期の子に多く見られる。

https://ishachoku.com/symptom/respiratory/6401/

※注意:前庭性片頭痛は片頭痛持ちにみられる症状・病名だが、他の病気との見分けが難しいので、自分で決めつけずに耳鼻科・脳神経外科の受診をお勧めする。


いま

今は休職している。検査後すぐ休職が決まったのだ。

大きな病院での検査を終えた後、心療内科で休職のための診断書を書いてもらった。

約半年間、不規則な生活リズムの中、わずかな体調の変化を市販薬で消しながら働いていたのがよくなかったらしい。かなり症状が慢性的な状態となっており、2ヶ月の療養が必要ということになった。
治療のために1ヶ月、元通りに社会復帰するためのリハビリに1ヶ月。

7月末から8月は実家に帰省して療養した。
父と母には事前に症状と休職に至った経緯を話していた。
祖母は心配しすぎてしまいそうで、「長めの夏休みをもらったんだよ」と話した。
(東京にもどるな!!と言われそうだったので…)

実家では猫2匹とのんびり日向ぼっこしながら、気が向けばちょっと仕事以外の勉強をしてみたり、お菓子作りをしてみたり。

6月の賞与でキャリアスクールにも入ってみた。
新しいことを学ぶのはいい気分転換になったし、大人になってからの勉強はとても楽しかった。


そうした生活の中で、自分を振り返るいい機会だなと思い、今こうしてnoteを書き始めた。
つらつらと書き始めてみると、結構楽しく、6本目まできてしまった。
しかも、私がほぼ自分のために書いたこの文を、「おもしろい」と言ってくれる人までいる。

最終回となる本記事は7000字近い。
ここまで読んでくれた人は、よっぽどの暇人か、私のファンかな?笑
他人の長話に、ここまでお付き合いいただきどうもありがとう。

帰省中に見にいったひまわり畑
暑さに耐えきれず20分で退散


これから

おそらく私の症状は、半永久的に付き合い続けるものになると思う。
休職して1ヶ月半経ち、少し快調な日もあるが、まだまだ日常への影響は残っている。

外の光や白色を眩しく感じてしまうため、外出時はサングラスが手放せない。
安定剤なしでは寝付けず、朝は壁に手をつけてないとよろけてしまう。
急にバランスを崩すので階段を降りるのも怖い。

血尿や手の震えがふとした時に出てきてしまい、あの不安に駆られた日を思い出す。

仕事を見直すことを少しづつ考え始めている。
もちろん今も建築は大好きだ。
工事現場を見ているとわくわくするし、建築観光や展覧会も心躍る。

建築の仕事をするなら現場に出たい。
自分の手と頭で考えたものが出来上がるのを、自分の目で間近で見ていたい。
だが、日常生活のなかでふらつきや手足の震えを感じるたびに、
「これが工事現場の足場だったら…」
「大事な打合せに向かう途中だったら…」
そう考えてしまい怖くなってしまうのだ。

今の会社には、現場に出ない事務系の仕事などを勧められた。
多分それだと、私は現場で活躍する同期への羨ましさと、理想的に働けない自分に歯痒さを感じてしまうと思う。

今の会社は大好きだが、退職を考えている。
退職を考える理由は、マイナス的な意味合いだけではない。

この先、自分が望む形での建築の仕事はできないかもしれない。
でも気持ちは前向きである。

建築が好きだ。
この気持ちが私を前向きにしてくれる。
建築は好きなまま、もっと好きなことに出会えるか挑戦してみたい。


まずはゆっくり療養して体を回復させる。これは一番大事。
全力で動けるくらい復活したら何をしようか。

少しだけわくわくしている。
学生時代に気になってたけど結局やらなかったバイトをやってみようか。
カフェや映画館スタッフもいいなあ。
ハウスシェアもしてみたいな。


わたしはわたしを思いっきり楽しんでいきたい。
休職はいいきっかけだった、と将来楽しく話せるように。
まだまだ先は長いのだ。楽しんでいこう。


今私は、この記事で自分自身を振り返りながら、そう思えているのである。

あとがき

本当に長〜い他人の"自分語り"をここまで読んでくれてありがとうございました。これにて一旦、100%自分のための振り返りnote『好きなことを仕事にして休職するまでの話』は全6話で完結です。

これは私のための記事です。完全自己満足。

でも私の経験談や過去話が、似た境遇で悩むどこかの誰かに重なって「同じ人いるよ、大丈夫〜」と、僅かながら寄り添えるものになっていればいいなと思います。

今後も日常的な話を更新していきますので、よかったら後日談としてお楽しみください。

サノツキミ

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