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太宰治全集付録の月報を読む。

パン屋さんでふたりの天使に出会う

私の住む街の、この近辺でおいしいと評判のパンやさんに家人のつきあいで行ってきた。家人がパンをトレーに山と乗せ、レジ並びをしている間、私は店内にあるベンチで座って待ちながら、いま正に会計をしている若きお父さんと、彼にまとわりつく二人の幼い娘さんを見ていた。「ちょっと邪魔をしないで、あっちのベンチで座って待っていなさい」と父。二人の娘は私の横に仲良く座ってくれたのだが、私側に座った妹らしき女の子が何だか私を見ているのである。視線を感じた私はその女の子に話しかけた。
「かわいいでちゅね」
その女の子は、にこにことして私を見上げている。
「かわいいでちゅね、(おとしは)いくつ?」
またもやニコニコと私を見ている。
「2歳かな、3歳なのかな」
意味が通じたらしく、その子は指を3本立てて私に見せてくれたのだ。
「うん、そっか、3歳なのか」私は大きく頷いて見せた。
レジで会計を終えた若きお父さんが来て、二人の女の子は立ち上がりお父さんについて出口へと向かった。お父さんに向かって私は軽く微笑みながら「こんにちは」と声をかけ、お父さんもにこりと会釈してくれたのだが、すると今度はお姉さんらしき、5歳くらいかな、彼女が私の方を向いて大きく手を振りバイバイをしてくれたのである。
私は最近、心と言ったものが少し疲れていて下を向いてばかりの毎日を過ごしていたのだけれど、この小さな姉妹に会って何だか元気が戻ってきたような気がしてきた。親が側にいるいないに関わらず、時と場所を間違えれば変質者のおじさんと勘違いされかねない昨今ではあるけれど、パンやの店内でこんなステキな出来事があって、今の私を癒やしてくれる最高の贈り物なのだと実感した次第である。

太宰治全集の月報

さて、少し心も晴れて元気になった私は、帰宅してまた例の勉強を始めた。まず今読み進めている「太宰治ブームの系譜」(滝口明祥)を開いた。太宰治が今日まで時代を越えて受け入れられ、何回かのブームとして登場しているその系譜と理由を調べ上げた本である。高いので図書館で借りた。
当然ながらそこでは太宰治を取り巻く人たちがどう太宰と関わったかを詳細に見ていくのだが、読み進めながら私はあることに気がついた。
「うん、待てよ。おれもいい資料を持っているじゃあねえか」
以前にも書いたけれど私は筑摩書房版、太宰治全集全12巻を全巻持っている。「太宰治ブームの系譜」にあった表「太宰治全集・文庫等の刊行年表」を見ると、第7次全集1975年6月~1977年、とある。
いいだろ!えへん。
とその全集の一冊一冊には必ず付録として「月報」が挿入されていたのを思い出したのである。
私は正にポンと手を叩き全集を全部開いて月報を取り出し、あわててインクジェットプリンターを起ち上げコピーしだした。月報の原本は小さな付録だったので拡大し、A4紙に全12巻その全てを小一時間掛けてコピーしたのだ。

これが原本。「月報1 昭和50年6月」とある。月報は基本8ページで作成されているが、この第一巻の月報だけは12ページで作られている。編集後記ではこう書かれていて面白いので紹介したい。文中「窺い得る」という言葉もいい。

月報は各巻八頁の予定ですが、本巻には第一回芥川賞の銓衡(選考)経過を収めたため十二頁としました。芥川賞を受賞し得なかったことの衝撃と落胆は「創世記」(第二巻所収)や「川端康成へ」(第十巻所収)からも窺い得ますが、当時の太宰にとってそれは大きな出来事だったのです。

下の写真は、佐藤春夫の選考経緯(文藝春秋昭和十年九月号)を転載しているが興味深い。

僕は本来太宰の支持者であるが・・・(ノミネートされた)「逆行」は太宰君の今までの諸作のうちではむしろ失敗作のほうだろうと思う。」

佐藤春夫はまずもって「粋(いき)」な男であると、そしてこの頃から若き太宰の才能を評価していたという点で、私は改めて感心するところである。

さて次は川端康成の弁。芥川賞を逃し怒り心頭の太宰に向けて書いた小文が転載されている。読むと川端康成のやさしい誠実さといったものが随所に滲み出てきて、泣きもろい私の目を潤ませてしまうに余りある。

しばらくはこの月報を大切に読み進めていきたいと思っているが、まずは、昭和の人達の書いた文には漢字が多用されていることに恐れ入る。電子辞書もシソーラス辞書もないのに語彙がきわめて豊富なのも驚いた。頭が下がる。