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遊佐准尉を訪ね、戦争を考える

(注意・・・終戦直後、自決された一陸軍士官の方を調査し、現地を訪れ以て慰霊をするという話です。戦争を繰り返さないために必要だと信じて記事をアップしていますが、苦手な方は読まないで下さい。内容に問題がありましたらコメント欄に入れて下さい。)


1,はじめに

その慰霊碑にはこう書かれていた。

「遊佐元航空准尉並妻子殉国慰霊碑」

梅雨の合間の休日、雨を吸ったのち陽に炙られた林が湿気を放つ、そんな中で、虫除けのために被っていた帽子を取り、私はそっと手を合わせた。自然に両の手が合わさったと言ったほうが、その時の気持ちとしては正しい。

2,遊佐卯之介准尉

ネットで検索してみるといくつかの資料が出てくる。記事出所のほとんどは2015年8月18日に大きな慰霊祭が行われ、その模様を伝えるニュースが多い。ここはそこで調べたいくつかの資料を結合しする形で、私自身の勉強も兼ねて詳細に記録していこう

まず、遊佐卯之介准尉は、長野県上田市にあった陸軍飛行学校で、操縦の教官をしていた、とある。

長野県は信州とか信濃とか別名も広く使われている県であり、上田市は、重畳とした山々に囲まれた信州の、ちょうど東側の盆地に位置している。戦国の武将、真田一族が支配し栄えたた城下町として有名。その上田市を割るように流れる千曲川河川敷南に面したあたりに飛行場はあった、今の上田千曲高校の辺だ。地図上では長野県上田市中之条。

飛行学校は、正式には熊谷陸軍飛行学校上田教育隊。戦争中は10人近い教官で飛行機の操縦を教えていて、同教育隊からは少年飛行兵を含む10数人が特攻要員として出撃し、戦死した。

遊佐卯之介准尉は大正4年生まれ、東京出身、昭和11年20才で砲兵連隊入隊、以降、満州転属、のち熊谷飛行学校を卒業し、昭和15年に上田教育隊に着任。下士官からのたたき上げのトップとして昭和19年、准尉に昇任した。遊佐准尉の人柄は、当時当たり前だった鉄拳制裁などとは無縁の、誠実な教官であったと教え子の手記にあった。技術力も抜群だったという。

新入練習生に真っ先に話したとという言葉が伝えられている。
「君たちの命が終えるときは、私の命も終える時だ」

昭和20年8月13日に組織的な特攻は終わり、15日に終戦。それから3日後の8月18日未明に、准尉は当時住んでいた借家から2キロほど離れた猫山の東斜面で軍刀による割腹自殺をした。遺書に因れば、妻の秀子さんも自決を供にする事を望んだため子供だけ残す事もできず、3人で決行することになったと。発見は翌8月19日。
このとき、遊佐准尉は30歳、妻の秀子さんは22歳、長女は生後27日という余りに若い家族だった。ここでは引用しないが立派な最期であったとのこと。奥様の膝は(開かぬよう)縛ってあったとも。

 両親への遺書に
「特攻の花と散る日をまちしかど ときの至らで死する悲しさ」
と辞世の歌を遺していたとある。

その後、昭和31年、関係者の方々が苦労して資金を集め慰霊碑を建立され、以後地元の方が手入れされていたよう。2015年に「戦後70年遊佐准尉並妻子慰霊の集い」が20年ぶりに執り行われたとのこと。
以下は地元の信濃毎日新聞2015年8月19日版のコピー。

3,慰霊碑を訪れる

さて、私は先日、梅雨の合間の休日に、その慰霊碑を訪ねるべく、長野県上田市へと出かけてきた。実際行って手を合わせずにこの記事を載せられないからだ。
上田市郊外にある「道と川の駅」をめざし、そこでいったん地図の確認をしてから一路、「猫山」をめざした。グーグルマップの指示通り、本道から細い路地を少し行った先に、小高く盛り上がった丘を見つけることができた。車を降りて正面らしき草地へ入るとそこには看板があった。因ればそこは、丘の頂上にある由緒ある観音堂を中心にして、一帯は「猫山」と呼ばれているらしい。以前、公費による整備事業を活用して、小さな公園と周囲を巡る遊歩道と東屋が作られたようだが、今こうしてみる限り、あたり一面草も伸び荒れ果てて、どこが遊歩道なのかもわからないほどで、つまりはここを訪れる人の少ない事を裏付けている。目前の斜面なかほどに石段があり、どうやらここを登り詰めると観音堂があるらしいが、下からはよく見えない。

看板を読み終えて猫山にはいるとすぐ、観音堂に登っていく石段の右手に、目的の遊佐准尉慰霊碑を見つけることができた。そのあたりだけは草もなく整備されている。少し大きな墓地を思わせる石囲いの中に、石碑が大小と二柱建てられ、線香立ても置かれ、誰が来たのかお供えのペットボトルが半分色あせて置かれていた。
しんとして、幽境といった気配のなかで、私は送り出した生徒を思う准尉の気持ちと、夫について行かれた奥様の気持ちを思い、まずは静かに手を合わせたのだった。
その後観音堂まで石段を上がり、再び碑まで戻ってきれいに草刈りなどしてあることを確認、安心した次第。

そのあと、ここにはもう一カ所、手を合わせなくてはいけない場所があることを思い出し、私がそうではないかと思う方向へ、草の伸びた遊歩道を右へ回り込むように進んだ。丘をぐるりと回り込んだ反対斜面にそれはあった。
古びた立て看板は縦に半分に割れていた。「上田飛行場、特攻教官、・・・自刃現地」と推察することができる。
ただこの先の様子、つまりお亡くなりになった場所の描写などは、私はここで書きたくない。いや、ちょっとネットで調べただけで識者気取りしている下品(げぼん)な私などは、絶対に書いてはいけないと思う。
勿論その場には他には誰も居らずしんとしていたけれど、ここいらあたりにも日が当たり、場は幽邃として静まりかえり寧ろ厳かだった。斜面の中程に小さな慰霊碑があった。写真も数枚撮ったけど、どれもが私の胸の一番奥までぎゅーっと締め付けてしまうものばかりだ。掲載はやめておこう。それがいい。
私はここでも手を合わせ、そしてその場をあとにした。

帰り道に寄ったコンビニの駐車場で、私は塩田平と呼ばれているこのあたりの水田に、青い稲が植えられ、水が満たされ、天からは太陽が雲のすきまから強い陽を放っているそんな景色を見た。先ほどの辛く悲しい現場を踏査したあとの私には、そのとき何故なのか、「この風景を当たり前だと思ってはいけないのだ」と、一人呟いたのだった。
こんなのどかで平和な当たり前の風景も、遊佐准尉のような先人達の生きた、壮絶で悲しい時代があってこその「ありがたいもの」として受け止める、そんな時もあっていいんじゃないかと思った。

4,調査をしてのまとめ

辞世の歌から察すれば、「いずれか後に自らも特攻隊として死ぬ、と覚悟していたが、時が変わりそれも能わず、死を以て責任をとる」と解釈できる。遊佐准尉の責任を果たした行為は、私たち日本人の誇りとして、後世まで顕彰する気持ちも、至極自然だと思う。
しかし私は心の中で「遊佐准尉さんは違うんじゃないか。そんなんじゃないんだ」と自分に話しかける。国に対しての責任だけじゃないんだと思えるその気持ちを、それを確かにしたのは22015/07/04付けヤフーニュース高越良一氏の記事であった。この記事が遊佐准尉の事件と22015年の慰霊祭を一番正確に正しく伝えていると思うが、その中で発起人の方の話として書かれている一節を引用する。

「軍人と言うより誠実な教師として、君たちとともに私も命を終えるという教え子たちとの約束を果たしたのではないでしょうか。教え子を特攻に送り出した責任を当然のこととしてわきまえていたのですね。勇ましい殉国とは違うように思います」と○○さん。(慰霊祭発起人)

私が、この慰霊碑を訪ねた旅を終えて思ったのは、遊佐准尉は自らの命と同等の強い責任感、使命感から一生懸命に若い練習生に操縦を教えていた教師だっただけなのではないかと言うことだ。
そうして遊佐准尉と奥様と赤ちゃんの三人は、あの厳しい時代、特に昭和19年20年の戦争末期を、ひたすらに必死に生きたということだ。
ここで言う「必死」という単語は、この夫婦にとっては「生活」という単語と同義だった、つまり毎日の暮らしそのものだったのだろうと勝手ながら解釈したいのだ。

もう一つ言えるのは、あの戦争の4年間、国の指導者たちや日本の軍隊という組織は、突き詰めていえば「戦争という時代」は、国民ひとりひとりに対して、命と同等の厳しい責任を負わせていたのではないか。戦争というそのものが、厳しい使命と強い責任を、准尉のような士官、はたまた名もなき下級兵士ひとりひとりにまで、もっというと当時の国民全員にまで、死ぬことへの覚悟を求めていたのでは無いかと言うことだ。
こんな発想は極論だろうか。そんなこと言ったら靖国神社に眠る兵士達が浮かばれない?そうかも知れないし、そうでないのかもしれない。
特攻隊員に志願する飛行兵を要求し、そして遊佐准尉にそうしたように、特攻要員を養成教育せよと教師に要求したのは、当時の軍隊であり国の指導者たちであり、そして「戦争そのもの」なのだと言う事実を知るべきだ。

戦争は、それ自体の持っている責任を、名もなき人々全員になすりつける。逆に言うと、一人一人が戦争の被害者であるだけでなく、責任も背負わされてしまうと言うことだ。それが今回私が気付いたことなのだ。

慰霊碑を訪れてわかったことがもう一つ。
ここでも地元の方々や、戦争体験を後世に伝えようとする有志の人たちが、一生懸命活動されているという事実。私は本当に頭が下がる思いだし、特に何らの活動に関わっていない自分に少し恥じ入る次第、ペコリ。

5、太平洋戦争末期を調べる私

私は、10年ほど前から以後の自分に課した学習テーマを一つ決めている。それは、
「太平洋戦争、その特に後半、戦局が変わり、圧倒的な力を以て米軍が攻め寄り、敗退を重ねていった昭和18年あたりから、日本軍、とりわけ日本陸軍と、中でもその下級兵士たちが、本当はどう戦かっていったのか、そしてどう敗北していったのか、また敗戦ののち誰がどう責任をとったのかの実相を調べていきたい」というものだ。
窓際の閑職とは言え、一応サラリーマンなので、勉強や踏査に使える時間も限られてはいるが、それでも暇を見つけては本を読んだりネットで調べてみたり、時に現地踏査をしている。
確かにはじめは勉強の方向も模糊として、興味の向くままに読み始めていたのだが、その時分に行った沖縄旅行のおりに見学したいくつかの戦跡を見てのち、意識して勉強を始めたのが2012年頃。
まず沖縄戦を勉強し何回か現地を訪れてガマにも入り、軍民渾然となった戦争の悲惨さを知った。そのあとインパール作戦の本を読み、戦闘ではなく餓死した兵隊がいかに多かったのかを知った。また靖国神社、遊就館を訪れ、靖国問題を調べる中で戦争責任を考えずにはおれなかった。連関して東京裁判の本を何冊か読みすすめた。
そんな自分なりの勉強の中で、終戦後に責任をとった方たちに興味を持ち、調べを進め、今回の事件を知ったわけである。

戦争はいけない。でもどうして戦争はいけないのか。
殺し殺されるから?そう。でも漠然とはわかっていても、しっかりとした返答はできない。何故なら今の日本には戦争はなく、私たちの世代は実体験として知らないからだ。
でもいったんその近視眼をやめて目を上に向けてみると、つい75年前までの、日中戦争から数えて10数年にわたる戦争をしてきたという歴史があることに気付く。75年前?それはお侍さんが闊歩していた戦国時代でも江戸時代でもない、まさに私たちの父母や祖父母が生きていた、現代に生きる私たちの生き様そのものであるからだ。
おそらくあと10年もすれば、銃を担いで戦争に行った実体験者「元兵士」はいなくなっているだろう。
そんな今だからこそ、戦争の何がいけないのか、どうしていけないのか、自分で調べることができるいくつかを例に、自分で実際訪れて得た感想をベースにして、市井に生きる私たちの目線からきちんと整理して見よう、そう思い、そう信じている。