岸田今日子の朗読「銀河鉄道の夜」を聴く
「銀河鉄道の夜」どうしたらこんなに美しく悲しい文章が書けるのだろうか。どうしたらこんなに澄んだ心のままに物語りが浮かんでくるのだろうか。
僕は昨夜も岸田今日子の朗読する「銀河鉄道の夜」を聞きながら、つい物語に入り込んで、少し涙がにじみ目先が霞んでしまった目を、ぎゅっと閉じて、そんな事を思うのである。
梶井基次郎、太宰治、いくつかの朗読CDを聴いてみたけれど、この宮沢賢治「銀河鉄道の夜」が、特に集中して聴いた(聴けた)ものであった。図書館で借りる前に目論んでいた「車を運転しながら、散歩しながら」の「ながら聞き」はこの宮沢賢治においては、土台無理なのである。真剣に聴いてしまう。他の作家の作品も、確かに音楽を聴く調子で流す、という訳にはいかないけれど、この作品は特にじっくりと聴いてしまう。同じセンテンスを何度も、繰り返し確認するように聴いてしまう。岸田今日子の朗読ってところが泣かせるのかも知れない。
するとなぜか、というより当然のようにこの悲しい物語に、いい年齢(とし)して人生のまとめの時期に入ってきている僕なのだけど、なんだかだんだん切なくなって来て、めそめそ泣いてしまう。
そうして、少し悲しくなってくると、甘ったれた妄想が頭をもたげ、すると僕の秘密の恋人に逢いたくなってしまう。
遠く離れた町のホテルの部屋のベッドで、シャガールやモディリアーニの画集を広げる彼女の横顔を見ながら、この「銀河鉄道の夜」をぼんやりと聞いていたい、そんな事を考え始めている。宮沢賢治の澄んだ心とは正反対の、残滓のような薄汚れた心と老骸と朽ち果てた今の自分は、都合よく棚の上に載せられ、一方で、若いときのままのきゅんとした切ない気持ちだけが一人歩きし始めるのである。