三つの「思ひ出」
「コロナ蔓延する巷に足向ける事能わず、依って書くネタなし」これが今の私。だってどこにも行かないんだもん。
「都会に暮らす我が子等が感染せぬようにと手を合わせる」これが今の毎夜。こんな愚鈍な男ですが、遠方で暮らす3人の父を細々とやっております。
1,記憶のはじまり
さて太宰治の数ある作品の中で、あなたは何を一番に選ぶだろうか、という問いは、このnote記事の中で読者に向けて何回か書かせて貰った。その時その時代で私も推しの作品は変化していくのだが、今置かれている自分の心境のなかで選ぶとしたら「人間失格」とこれから引用する「思ひ出」である。
太宰の一般的に謂われる処女作である「思ひ出」は、こう始まる。
「黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立つてゐた。叔母は誰かをおんぶしてゐるらしく、ねんねこを着て居た。その時の、ほのぐらい街路の靜けさを私は 忘れずにゐる。」
おそらくは誰にでも記憶の始まりと言ったものがあって、ぼんやりとした風景やら親族等の人の姿が自分の心の奥に刻まれていて、時折原風景といったものとして思い出されてくるものだ。さてこんな鈍感な私でも一つの情景がアルバムに貼られた写真のように、一枚とした形で記憶の始まりとして残っている。それは・・・
「黄昏のころでは無かつたが、私は叔母と井戸を挟んでたつてゐた。叔母は私に何か言つたらしく、こちらを向いてゐた。その時の風景が一枚の写真として切り取られたまま、忘れずに残つてゐる。」
太宰先生、真似してごめん。記憶の風景はたったそれだけなのだが、私が小さい頃は、私の父母という一家と、父の兄夫婦という一家、つまり兄弟夫婦二家族が街道沿いの家に同居していた。大切なのはその家の中庭あたりに井戸があったという記憶である。その井戸を真ん中に対面に叔母が立っていて、叔母は私を驚かせたのだろうか、気をつけるよう注意を与えたのだろうか、何を言ったのかは分からないが、井戸と対面の叔母と井戸の回りの雑草とが、記憶のはじまりとしてしっかりと残っているのだ。数年前にこの叔母も他界してしまったが、この叔母には、死んだ先妻との結婚を頑として認めなかった私の父母を説得してくださいと、結婚前の先妻と二人でお願いしに行った事など思い出されるのである。
2,嫉妬に燃えた
さてそんな私も、痴呆の、いや地方の高校を卒業し、京浜コンビナートにある大きな工場で働き口を見つけ一人暮らしを始めた。数年後、チンピラごろつきに成り果てた私は会社をやめ、通っていた夜間大学も授業料滞納で除籍となり、東急東横線菊名駅の近くに安いアパートを見つけ住み始めた。東横線の線路が真横にあって電車の音と振動がひっきりなしにする、安アパートだった。私の部屋の隣にはどうやら新婚夫婦が住んでいるようだった。でも毎夜耳を澄ませていても特にお楽しみになるような声も聞こえず、この淡泊な夫婦にある種の失望さえ感じた毎日なのだったが、とある日、夫婦げんかが始まったようで、私は耳をダンボのようにマギー審司のように、嬉々として大きくし澄ませた。その時代なのだろうが、言い争いではなくダンナが一方的に怒り続け、とうとうピシャという音とともに奥さんが泣き出す声が聞こえてきたのだ。今のようにエロ動画が溢れている時代とは違い、ビニ本で妄想を膨らませながら右手を必死に動かすと言った時代だったので、その時私はかなりの興奮を得た記憶がある。
話はそこからで、さて翌日、目を覚まし窓を開ける、すると目に飛び込んできた風景とは昨夜けんかしていた隣の夫婦の洗濯物であった。その中でも今でも記憶に残っているものは、干されたダンナのワイシャツに妻のパンストが絡みまとわりついていた事だ。これには正直、激しい嫉妬を感じてしまった。何十年も経った今でも思い出すくらいだから、あの時の怒りに似た嫉妬というか、憧れというか羨望というか、複雑な気持ちは強烈なものだった。ぶたれて泣いたはずの若い奥さんが干したであろうワイシャツと巻き付いたパンスト。小梅太夫ではないけれど「ちっきしょー」という一言が的を得た感慨だった。
3,孫の手を引く私
私は良く夢を見る。だがその多くは悲しい夢ばかりで、だからこそ目が覚めても記憶に残っている所以なのだろう。
今こうして、何事もなく元気な孫が誕生してくれたので、家族には秘密裏に書き綴っているこのnoteに書けるのだが、と予め断っておきたい。
先日見た、悲しい夢。それは孫の手を引いて私が実家に帰るという場面。ただそれだけの動かない写真のような夢だった。
実は私の娘は臨月に達していて、その夜の数日後に産まれてくる筈の孫は、娘にとって2番目の子である。この赤子の上にはnoteでも時折書いている5歳の男の子がいる。当たり前だけどこの男の子を私はとても可愛がっている。
そんな彼は夢の中ではまだ幼く、まだ2,3歳だろうか、替えの服が詰まっているだろう小さなリュックを背負い、ひょこひょこと幼児の歩き方をしていて、そんな彼の手を引いて私一人、私の父母の待つ実家へ入り玄関を上がるのである。それだけなのだが、目を覚ましても強烈な印象として覚えているのには理由がある。
これも何回か書いているので内心忸怩たる思いなのだが、遠い昔、先妻が死んで数日後、身の回りのものを詰め込んだ鞄を背負い、二人の子供の手を引いて実家の玄関を入った、あの時の光景とまるっきり一緒なのである。その時の実家も今は建て直してきれいになっているが、夢の中で登場した当時の実家にあるのは以前のままの薄暗い玄関そのもので、そうして、そこに入る、悲しい顔をした私と手を引かれた孫。他には誰もいない。孫の父母(私の娘夫婦)も、私の妻も、上がり込んだ先に待っているはずの私の父母も、誰もいない寂しい風景。
この夢はしっかりと朝まで記憶として残っていて、でも、赤子が産まれる今、家人に決して話してはいけない、自分の心の中に飲み込んでおかなくてはいけない、そう決め、起きたばかりの朝、外に出て、何事もなく娘が元気に赤ん坊を授かれるよう、私は先妻の眠る墓地のある方向に向かって手を合わせた。私はいつも以上に、先程の夢を払拭するべく、必死になって手を合わせたのである。私が実際に経験した、二人の子の手を引いて実家の玄関を入ったときの、心が潰されそうな得も言われぬ悲しみが二度とありませんようにと。そしていつもの通り、少しめそめそと泣いてしまっていた。
数日後、元気な女の赤ん坊が産まれたとの娘からの連絡が入って、私はホッと胸をなで下ろし、すぐに手を合わせ亡き妻に感謝したのはいうまでもない。また私の沈淪した夢の中に登場させられた最愛の孫を、今ここでぎゅっと抱きしめたい、そんな切ない気持ちである。
追伸
見出し写真は、私の使っている座卓の上。