見出し画像

電車アナウンスと沢木耕太郎

「スマートフォンやゲーム機でゲームをしながらの乗り降りは危険です、おやめください。一旦中断されてから電車の乗り降りをしてください。足下が大変危険です。」
言葉の端まで正確には記憶していないが、車掌や駅員の放送が車内からもホームからも流れている。
何だか文明の末期症状といえる状況が、こんな絵図となって都会から炙り出されているとは、途端、私は震え上がった。見ると確かに車内のほぼ全員スマホをいじっている。そのうち何人がゲームをしているのか分からないけれど、駅員がゲームと特化して注意喚起しているくらいだから、相当人数が目前の小さな画面の中で繰り広げられているバトルに夢中になっているのだろう。

これは先日、私が沖縄から羽田空港へ戻ってきて、新幹線に乗るため、都区内を電車移動したさいの出来事だ。私は田舎ものなので都会へは行かない。行きたくもない。また田舎の日常生活のなかでは電車に乗ることもない。必要に迫られて、都内を移動したときなどは、こうして都会の特徴的な場面にでくわし驚いてしまう。夕方6時も過ぎ、帰宅混雑時だったからかもしれないけれど、以前とは違うこの放送内容には正直面食らってしまった。そうして電子機器や通信環境が人たちの生活に与えている影響、メールやLINE、SNS、電子書籍だけでなく、ゲームをしている人々の多さに、震え上がるのである。
ゲーム、スマホゲーム、ゲーム機、みんなどうかしている。

通勤車内のそんなプチ地獄的不思議な光景に圧倒されながらも、私は何とか新幹線に乗る事ができた。そうしてシートとシートに区切られ、車内がそれほど見渡せない、小さな空間に入った事に気づき、少し安心した。ほっと胸をなでおろしたのだ。
缶ビールを開け、ちびちびと飲みしま、座席ポケットにある鉄道会社の情報誌を手に取る。そこには巻頭エッセイとして見開きで沢木耕太郎の小文が連載されていて、新幹線利用の際は必ず読むことにしている。何故なら沢木耕太郎はずっと以前、高度成長期、社会を斜めから見ていた若者たちのバイブル「深夜特急」を書き、当時のアウトサイドな若者文化を席巻していた著名人だからだ。私も3回は読み返している。「Breeze is nice」だね。

今回は日本全国を移動する養蜂家と一緒に旅をした時の話が載せられていた。なるほど、と読む。沢木耕太郎、ね。
あのね、簡単に言うとこのエッセイの主旨は別として、というか内容は忘れた。彼の「文体」が普通で凡庸で、まあ、大御所様を前にして申し訳ないけれど、簡単に言えば「つまらない」のである。独特の癖もなければここぞという盛り上がりもなく、平易でわかりやすいのはいいことなのかもしれないが、読んでいる私をあまり夢中にさせない。なんだこの脂臭い書き方は、というような読み手を惹きつけるパンチ力あるエッセイが欲しい。金子光晴のような、大岡昇平のような、文節と文節の割れ目から「変な汁」が滲み出ている、くねくねとスイッチバックしている文体が、私は好きだ。うんうんとひとり肯く私。
でも汁を滲ませるような文章は今時受け入れられないし、旅行を促すような巻頭エッセイには、土台無理なのかもしれない。よく考えてみると、そもそも沢木耕太郎も重々周知の上で書いている。鉄道会社広報部も、「ほんわか記事」を依頼していて、打ち合わせの上のものなのだという気もしてきて、先ほどの大御所様批判もどこへやら。
調和ってことね。世界は調和されるようにできている。うんうん、また肯く私。
そうして北に向かう新幹線のなかで、癖のない文章はキライという、沢木耕太郎になれなかった落ち武者な私の、旅先というアウェイから東京というホームに戻った安心感で酔いが早く回り、強がって遠吠えしてみたくなる、そんな悲話なのである。沢木先生ごめんなさい。