いつもひとりだけれど

画像1 先妻の墓参りへの途上、葛折りになった山道の中程に据えられた、托鉢僧の彫刻に出会う。秋、落葉の真っ只中に来た時は、僧の佇む一角だけ、落ち葉の絨毯が敷き詰められ、彼の持つ鉢には、ドングリがふたつ載っていて、その悲しげな情景に泣きそうになったものだ。濃い緑に囲まれた今、こうして見つめると、僧の後ろに廻った辺り、深い緑の奥に、妻の住む天に登る、細い階段がありそうな。
画像2 墓参りから帰宅すると一冊の本がアマゾンから届いていた。 金子文子「わたしはわたし自身を生きる」。 映画「金子文子と朴烈」は逃したけれど、今年の夏の夜はこの本を読もう。ゆっくりとね。 因みに4000円弱のBluetooth イヤホンは、買うか買うまいか、とつおいつ迷い続け、ずっと買い物かごを暖めているだけなのだけれど、同値のこの本はなんの迷いもなく即購入。
画像3 どの親もそうであるように、私もまた、子供が私のために作ってくれたプレゼントを、何年経っても決して捨てはしない。絶対に捨てない。娘のA が小学生のときに作ってくれたトントン相撲は私の宝ものだ。そんな妻の面影を残す娘を見ていると、私を産んですぐに死んだ母も、こんな顔立ちをしていたのかななどと、妻と母を娘に投影させて、一人めそめそする雨の夕方。