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世のハゲたちによる「ハゲで何が悪い運動」でも起きない限り薄毛市場は無くならない

ちかごろ夕方からトップバリューの安いウイスキー(事実上のスピリッツ)ばかりを飲んでいるせいなのか、翌日つねにいつも漫然と過ごしてしまい何事にもほとんど関心を持てないでいる。廃人みたいだ。いやもう廃人なのか。脳に酒のこってる?蒸し暑さのせいか?また抑鬱症ぶりかえしたか?

梅雨時で散歩するのもしんどい。晴れてても日中は日差しが強くてしんどい。オナニーだけは一日一射必ずやるけどあまり早くやりすぎるとまたムラムラして気が散っていけないので始末に負えない。

本を読んでいても活字を脳がうまく拾えず、ものを書く気力も起きない。どんなに必死で書いていても「どうせ死ぬんだし」という虚無感が脳裏をかすめてしまう。夢中になれる何か、を持っている人は幸いです。好きなプロ野球にさえこの頃はいまいち熱くなれない。贔屓にしているつもりの阪神が夏場になってから急にだらしなくなったからかも知れない。そもそもこの球団は優勝できる器ではない。

ものを書きたがる人間としてせめてナルシシズムだけでも活性化してくれるともの書く欲望も程よく刺激されるんだけど。思いの丈を文章でぶちまけるのは元来好きなはずだ。なのに最近、「パソコン開いてさあ書くぞ」とはなかなかならない。暖簾に腕押し的な無力感が慢性的にある。大した数の読者もいないのに倦まず弛まず自足的に日々ブログを更新できている人には頭が下がるよ。私はなんだか空しくずっと独り相撲している感じなんでね。

話はとつぜん変わるけど、対人的殺傷能力の高い罵倒語の筆頭として、「ハゲ」と「ブス」があります。そのどっちが言われてキツイかみたいな論争は、男の股間蹴りと女のお産のどっちが痛いか論争と同じく座興にはもってこいだが真剣に問うに値するものではない。

ただ「ハゲ」も「ブス」も罵倒語として効果は抜群だ(ポケモン)。

この二つの罵倒語に対する私の興味は尽きない。この種の言葉、当人ではほぼ変えようのない身体特徴への攻撃ゆえ、理不尽きわまる。たしかに「人生」とはもともと理不尽なもので、そうした理不尽のなかにこそ人間を人間たらしめる「傾向」があるに違いないのだ。

それにしても、世の男性陣はどうしてここまで薄毛を気にしなければならないのだろう。「ハゲ」という属性はあきらかに「負のレッテル」と結びついてしまっている。すくなくとも現代の日本社会において「ハゲ」は「男の威信」を損ねかねない、滑稽な「表象」として機能している。

病気で肢体不自由の人をからかうのは「どう考えても不道徳」だと誰もが納得しているはずなのに、「ハゲ」をからかったるするのは「べつにかまわない」という風潮が色濃くある(その「ハゲ」が加齢などに因るものではなく抗がん剤の副作用などに因るものだとしたら、「周囲」の見方も多少は変わるのかもしれない)。

「ハゲ」である当事者がそのことで気を揉んでいればいるほど、「ハゲ」という罵倒語の潜在的殺傷力は上がってしまう。というか、ほとんどすべての男女が「ハゲ」への「否定的印象」を抱いていなかったならば、その言葉はついに罵倒語とはなりえなかった。今は亡き志村けんのように芸人としてそれを「ネタ」にし笑いを取れる強かさを誰もが持ち合わせているわけではない。「おいハゲ黙れ」と喧嘩を売られたとき、「うるせえハゲは俺のせいじゃねえだろ、俺に断りなく勝手に抜けやがった髪のせいだ」とユーモラス(?)に切り返せる度量を持った男が一体どのくらいいるだろうか。だいたいの冴えない平凡な薄毛男子は道端でもどこでも、「ハゲ」と後ろ指をさされることにいつも戦々恐々としているのではないか。

あの元衆議院議員の「暴言」があれほどの「過剰反応」を引き起こした理由は日本中のハゲを敵に回したからだ、という例の「ジョーク」を思い出そう。

ある程度年齢を重ねた男にとって一番言われたくない言葉は「デブ」でも「エロおやじ」でも「マイルドヤンキー」でも「キモオタ」でも「貧乏人」でも「中卒」でも「Fラン大学卒」でもない。「ハゲ」なのだ。

この罵倒語はなぜここまで男のハートに打撃を与えるのだろう。体の特徴のことで笑われる、というのはまことに残酷なことである。イスラム教徒みたいなブルカをかぶって外を歩けたら、という人もかなりいるのではないだろうか。他人の眼差しにさらされることに極度の苦痛を覚えている人はいったいどうやって生きればいいのだろう。この手の問題はハゲ問題よりもずっと広くて深いだろう。

「ハゲ」は昔からそんな位置づけではなかった、とか、時代によってはそれは知恵と老成の印として尊敬さえされた、とかそんな歴史的事象の話はこの際どうでもいい。ものの見方や価値観が時代によって変化することくらい私は百も承知だ。問題は、「ハゲ」と見なされることをものすごい数の男(女)が今現在、生々しく悩んでいて、私もその例外ではありえないということなのだ。

私はまだ三十を少し超えたばかりで薄毛という段階でもないのだけど、心なし生え際が後退しているような気がする。もしこれからシャンプー中の抜け毛で一喜一憂するような状況になってしまったら、「ハゲ」という他愛もない言葉にイチイチ身構えてしまうに相違ない。

おのれのハゲと正面から向き合いついに開き直ることに成功した「三枚目キャラ」ならともかく、おのれの薄毛が気になってしようのない自己愛的一般男性は既存の毛髪産業を信じ涙ぐましい自己投資を続けるほかはない。怪しげな植毛広告、薬局にふてぶてしく並ぶやたら高価な育毛剤、増毛メーカーの林立、もはやこの「ハゲ対策産業」の暴走は誰にも止められない。世の中の悩めるハゲたちが一斉に開き直って「ハゲで何が悪い運動」でも大規模に起こさない限り(「全国のハゲよ、決起せよ」とか誰か檄文書いて)。いや冗談じゃなくてマジで。

同じことは「ダイエット産業」や「美肌産業」にも言えることなんだけど、とにかく「人から少しでもよく見られたい」というマスの欲望がそうした産業を下支えしているのは間違いないこと。他人の肉体への眼差し・嘲笑いは純然たる「暴力」なのだ、という自覚がもう少し普及すればいいとも思う。

女への「ブス」という罵倒語もなかなかの破壊力を持っているらしい。私は男だから実感としては知りかねるのだけど、カレー沢薫の『ブスの本懐』とか岩井志麻子の『嘘つき王国の豚姫』なんかを読むと、女が「ブス」として自覚的に生きることの過酷さが追体験できて多少参考になる。女への「ブス」は、たとえば男もよく言われる「不細工」なんかとはかなりニュアンスが違うのかな。女性にとって「可愛くない」というのは人生に影を落とすハンデ、みたいなことを女性作家自らがしきりに書いている。この種の自虐風あるいは開き直り風の物言いは女性作家なればこその「ぶっちゃけ芸」だ。そのような女性作家の「ブス論」には、「けっきょく容姿がすべて」みたいな通俗的言説では決して汲み取れない切実な憤懣・怨念が渦巻いている。

女があれだけ化粧に時間をかけ、髪やお肌のケアにも熱心な理由は、現今の社会における「綺麗であれ圧力」が男とは比較にならないほど強いからだろう(この頃では男の身体的美意識も確かに高まっているにもかかわらず)。品性下劣の「テレビタレント」は我勝ちに「不美人」を嘲笑っているし、酒の席での露骨な「女品評会」はもはや定番だ。

からりと晴れ渡った夏の日に長袖長ズボンでサングラス&日傘で紫外線を遮っている女をみると私は無性に腹が立ってくるのだが、それは、「女は肌のケアに神経を使わなければならぬ」とする「社会的性別(ジェンダー)」に対する強い違和感、ひいてはそのような「社会的性別」を信じて疑わない知的怠慢に対するイライラでもあるのだ。

この続きはまた後で。

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