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「あいつ痛いよな」の残酷なニュアンス

すくなくとも私の世代、だからいま現在三十代前半くらいの日本人は、「痛い」という嘲笑ワードをなにかにつけて乱用した。たぶん私とほぼ同世代の人間は、男であれ女であれ、今でも当たり前のようにこの言葉を用いて、同僚あるいは上司なんかを痛烈に「批評」しているのではないか。

まったく、人はいつ他人の俎上に載せられているか分かりません。自分について陰で囁かれているあらゆる人物評がもし全部筒抜けだったら即日発狂するだろうな。私のように自己愛が歪な形で肥大化した「失敗人間」にとっては、人のほんの些細な「口撃」にさえ我慢できない。ちょっと厳しく注意されただけで全世界が崩壊する感覚に襲われてしまう。巷でよくいう豆腐メンタルなんかタフなほうだ。私の場合、プレパラートメンタル、用語上もうすこし正確に言うならカバーガラスメンタルですわ。そのくせ年がら年じゅう万物万人に毒づき回っているんだから世話はない。ありていにいうとクズ。みんなちがって、みんなクズ。

前回「殺傷能力の高い罵倒語」の筆頭として「ブス」「ハゲ」を取り上げながらごちゃごちゃ考察めいたものを記してみたのだけど、「痛い」という言葉もなかなかにえぐいネガティブ・エネルギーを秘めていて、特有の「ドス」が利いているのだ。

「あいつ最近痛いよな」と言い放つとき、そこには憐れみを装いつつも冷徹に突き放して「対象化」してしまう「毒々しい否定性」を帯びている。この意地の悪い独特の含みを日本の老若男女全員が理解共有しているとは思えない。七十代くらいの老人が「あいつは痛い奴だわい」なんて毒づいている姿を私は微塵も想像できないし、目撃したこともない。その点でこれはスラングに近い性格を持っているのだろう。

「お前って痛いよな」と言われるくらいなら「お前って嫌われてるよな」と言われたほうが数等マシなのではないか、と私は思う。どっちも酷薄な一言には違いないのだけど、「痛い」という物言いに付きまとう切り離すような迫力のほうに私は一層強い恐怖を感じる。

あるていど具体的に、どんな人が「痛い奴」と認定されていたのか。

たとえば、クラスのみんな白けているなか一人だけ空回りして浮かれ騒いでいる奴なんかは典型的な「痛い奴」だった。

年下の子供とばかりつるんで威張り散らしているような奴も「痛い奴」だった。

同じ話やネタを何度も披露して大受けしていると勘違いしている人気者気取りも「痛い奴」だった。

生徒の気を引こうと漫画やアニメの話を不器用に挟みたがる教師もじゃっかん「痛い奴」だった。

他人の言葉遣いの揚げ足を取って得意気に修正したがるマウント同級生も私にとってかなり「痛い奴」に映った(これは高校時代にあったこと。しかもその揚げ足取りの修正そのものが知識として間違っているがゆえに余計に「痛かった」のだが、私は彼の偏狭なプライドに配慮し照れているふりまでしたのを覚えている)。

学生時代、友達何人かで飲んでいるときに誰も興味を持っていない「テレビゲーム」の話を延々と一人だけ続けた奴も、私にとって「痛い奴」だった。

「痛い」は、「痛々しい」と表面上はよく似ている。だけど、どこか微妙に違う。含んでいる毒気の成分が違う。一定の世代間でしか共有できていないニュアンスがある。私はその微妙な差異を説明できる自信がないし、執念もない。言語感覚鋭敏の人がいたら、いずれ考察してほしいと願います。

最後にひとつ言えることは、おしなべて「痛い奴」と認識されがちな人ほどその自覚がないらしい、ということだ。「痛い奴」はその究極体まで成長すると、「あいつは痛い奴だ」という周囲の囁き声が聞こえなくなる。これを「鈍感力」と呼ぶのかしら。

繁華街の人ごみのなか手をつないでモタモタ歩くことにも平気な神経を持ち、知り合いや親戚に著名人がいるみたいな平凡な自慢話を得々と垂れ流すことにも平気な神経を持ち、結婚披露宴で泣きながら両親への感謝状を読み上げることにも平気な神経を持ち、あるいは子供の写真をSNSのプロフィール画像に設定することにも平気な神経まで獲得してしまえば、たしかに人生向かうところ敵なしだ。恥知らずは最強なのだ。他者への気遣いなど無用。半端な羞恥心など生きるのに邪魔なだけ。

ただね。そうした「痛い奴究極体」に心から憧れることが出来ないのは何故だろうか。しょせん嫉妬なのかね。どうせ俺にはあの境地は無理さ。凡人だもの。

ふん。


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