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犀の角のようにただひたすら堕落して

むかし通っていた大学には建物として独立していた大きな図書館があって、それは地方の三流私立大学のわりに蔵書数が多い図書館で、その開架式の地下書庫にはずいぶん「怪しい本」も多く、病める精神と充たされぬ性欲を持て余していた二十歳前後の私は講義後よくその地下書庫をさまよい、気になる本を手当たり次第に読んでいました。厭人癖があり奇書嗜好性の強い私にとっては堪らない場所だった。そこには古色蒼然としたトンデモ本もたくさんあったし、無名著者による自費出版本も少なからずあった。本を書くことの虚しさをつくづく実感し感傷に浸りたければ書庫に足を踏み入れればいいと思う。歴史の土砂に埋もれた本たちのかそけき呼び声に耳をすましているうち虚無の「元気」が自然と体内より湧いて出て来るから。なにいってるか分からない? 私も分かりません。
そういえば、一九六〇年代後半の学生運動のようなものへの警戒のためなのか、「左翼系」「反体制系」の思想書なんかはきょくりょく誰の目にも触れないようような隅っこに並べてあったのを今でもなまなましく覚えている。ぜんぶがぜんぶとは言えないけれども、日本にあまねくある私立大学は文部科学省からの助成金でかなり経営を支えられているから、構造的に国に頭が上がらないようになりがちなのですね。だから式典のようなものがあれば何かにつけて「日本」を強調してくる大学幹部が必ずいた。もちろん「国旗」も掲揚したがるし、「国歌」も斉唱させたがる。すきあらば「愛国心」の大切さなどを説きはじめる。しまいには「この国難を乗り切れ」とか「英霊に感謝しよう」なんて叫び出しかねない調子だった。ああこの文部官僚のケツ舐めジジイどもは「国」が戦争をはじめればほいほいと政府に追随するに違いないだろうな、と青年心に思いましたよ。いやしくも学問の世界に身を置いているんだからそういうことはもう勘弁してくれよ、と大半の人たちはウンザリしていただろうけど、もうこれはどうしようもないのかね。無理に奨学金借りてこんな下らない馬鹿大学に入るより、田舎の自宅に引きこもって中央公論社の「世界の名著」シリーズでもひたすら読んでいたほうがずっと良かったと後悔したね。まあけっきょくその後中退して読書三昧オナニー三昧の自堕落生活を謳歌し続けているから、恨みがましいことはもう言いません。それになんだかんだいってあの書庫は愉快だったから。

いま毎田周一という人のことを思い出した。いちおう仏教思想家と紹介するのが適当かな。彼についてはほとんど誰も知らないだろうし、知る必要もほとんどないのだけど、その彼の著作集が大学の書庫にあって、どうしたはずみかそのなかの一巻をまるごとひたすらノートに書き写していた時期があるのです。その巻は「スッタ・二パータ」という有名なパーリ語経典を著者が日本語に直したもので、適宜補足的に加えられる二言三言にいちいち感心していたことを覚えている。度重なる失望と懐疑によって擦れっ枯らしになったドス黒チンポの今の私はとてもそれを素直には読めないだろうが、二十歳前後の私は出家願望もしくは自殺願望が半端ではなく、いつも血迷ったように「救い」つまり「涅槃的境地」を追い求めていた。だからどんな末香臭い法話も「心に沁みた」のだ。犀の角のようにただ独り歩め、という締めのフレーズがひたすら繰り返されるこの「スッタ・ニパータ」を出来るだけ学問的に精確な注釈と一緒に読みたければ、岩波文庫版を推奨します。毎田さん、すみません。

あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
(中村元・訳 岩波文庫版)

「犀の角のようにただ独り歩め」というこの強靭なレフレインに触れていると、私はいつも「よだかの星」という宮沢賢治の童話を思い出す。これは「存在していることの罪」を読む者に自覚させずにはおかない点で、ひじょうに恐ろしい物語だ。
よだか、というみにくい鳥がある日、「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう」と激しい内省におそわれ、太陽や星に「どうか私をあなたの所へ連れてって下さい」とお願いするがなかなか相手にされず、ついには夜空をひたすら飛び続け「星」になるというもの。
太陽や星のなかで焼け死ねず絶望したよだかが最後全力を費やしひたすらまっすぐ空高くのぼっていく様子は「犀の角」のそれと重なる。どちらにも私は途方もない悲壮感を見る。〈生の過酷さ〉に全身打ちのめされる。貫かれる。焼き尽くされる。
世の取り澄ましたような「悟り顔」の連中はこの〈過酷さ〉を経ているのだろうか。私はこの〈過酷さ〉を直視できているだろうか。
やはり何を語るにせよ、しょせんは自惚れにまみれた「思想的ポーズ」に過ぎないのではないのか。だから今ものうのうと生きていられるのではないか。動物他者の肉を食べたあとも平気でいられるのではないか。どこかの餓死や拷問死のことを知りながらもユーチューブなんかを見ていられるのではないか。
モンテーニュ『エセー』の「酩酊について」には、「よい酒飲みであるためにはあまり敏感な舌を持ってはならない」という「箴言」があるけれど、いま私はそれを「よい生活者であるためにはあまり敏感な精神を持ってはならない」というふうに言い換えないではいられない。他者のあらゆる痛みがそのまま自己の痛みになるとすれば、有感生物は五秒だって生きられない。他者の痛みへの「徹底的な鈍感さ」の上にほとんどの生き物は生きている。

なにをいまさら、と言われそうですがね。
この「地獄」からどうやって脱出しようか。
結論出たらここに書こうと思います。

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