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「短編小説」〜橋〜#青ブラ文芸部

降り出した細い線のような雨が高層ビルの窓ガラスを濡らす。幾筋もの線はやがて小さな流線形の
雫となって流れ落ちていく。
阿久津 清一は筋張った指で企画書に印鑑を押しながら、その様子を見つめていた。
遠いあの日、あの日もこんな雨が降り出した。

阿久津は今でこそ都会で成功を収めているが、元々は東京から程近い閑散とした田舎町の出身だった。青々とした山々に囲まれ小川のせせらぎが聞こえる絵に描いたような風景の中で高校までを過ごした。

清一には幼馴染みの諏訪部 哲也と言う同級生が居た。中間試験や期末試験の結果が、まだ掲示板に張り出されていた頃の話しだ。
清一は学年で常に1位か2位を争う秀才だったが哲也の名前は掲示板に載ったことはなかった。その代わり運動神経は抜群で野球部で活躍する傍ら、陸上の大会に引っ張りだされ短距離走で地区の新記録を叩き出した。野球部では投手で4番を打つような目立ったパフォーマンスはなかったが、ショートを固く守り足の速さを活かして1、2番を打つような選手だった。
秀才でルックスの良い女生徒に好かれる清一に比べ、部活動のせいで坊主頭の哲也は異性にではなく同性から好かれるタイプだった。
正反対な二人だから気が合ったのかもしれない。清一と哲也は、小さな頃からいつもつるんで遊んでいた。

哲也の野球部の活動が終わった中三の二学期、清一は、同じクラスの松下 美恵子と言う女生徒に恋をした。どこがどう取り立てて良かったと言う訳ではない。美恵子は当時、清一が好きだったアイドル歌手にどことなく似て、儚げで寂しそうな雰囲気を持った大人びた子だった。

「哲ちゃん、俺、松下 美恵子に告白するわ」
清一の部屋で哲也と受験勉強をしていた時、唐突に清一が言った。
「えっ、ンガフガ…」
食べていたカントリーマームを温くなった珈琲で喉の奥に流し込むと哲也が不満をあらわにした。
「美恵子は止めておけよ。あいつ、理科室で隣のクラスの大石とヤッちゃったって噂じゃないか」
「だから、いいんだよ」
「うん?」
「これから受験って時に俺が真面目に女と付き合うと思うか?」 
清一は机の引き出しの奥からセブンスターを取り出して口に咥えた。
「ほら、哲ちゃんもやってみろよ」
「う、うん…」
煙草と百円ライターを受け取ると慣れない手付きで哲也も火を点けた。
「ゴホッゴホッ」
「受験前にさ、俺、一発やってみたいんだ」
清一はコカ・コーラの空き缶へ慣れた手付きで煙草の灰を落とすとベッドの下からエロ本を引っ張り出してきた。
「女のアソコってさ、マスかくより気持ちいいらしいぜ」
「そ、そんな、俺は知らないよ」
「俺がフラレるとは思わないけど…」
「うん、清ちゃんはカッコいいからモテるもんな、大丈夫だよ」
「念には念を入れて、哲ちゃんに頼みがあるんだよ」
「はぁ~?」



その二日後、俺は松下 美恵子に話しがあるからとそっと呼び出した。もちろん、大切な役目を果たしてもらう哲也も一緒だ。
当時、俺はダットンとアロンの「恋の吊り橋効果」と言う心理学に興味を持っていた。「吊り橋の上の恋」とも呼ばれ、危険で緊張感のある所に居る者同士は恋に堕ち易いという単純明快な理論だ。つまり、ドキドキした心臓の鼓動の速さを脳が「恋」だと錯覚するわけだ。今思えば随分と卑怯で幼かったと思うが、あの頃の俺は真剣だった。

「何処まで行くの?」
美恵子のセーラー服の下の膨らみが俺の隣にあって、ちらちらとその白い小さな谷間が見える。
「もう少しだから」
振り返ると哲也は黙って俺の後ろを付いて来ていた。小高い山の中腹に古びた吊り橋が架かっているのを俺は、ずっと前から知っていた。
あの橋なら…

「ねぇ、暗くなっちゃうわ。話しは此処で出来ないの?」
「お願い、もう少し」
吊り橋がやっと目の前に見えて来た。
俺は美恵子の手を引いて
「あの橋の向こうに松下へのプレゼントを隠してあるんだ。」
思いきり大人びた口調で言った。
「だから一緒に渡ろう」
「こ、怖い」
下を見ると想像していたよりも遥か下の方に川が流れていた。確かに怖い。
でも後戻りはしたくなかった。
俺は美恵子と手を繋いで朽ち果てそうな木製の床版に足を掛けた。
「大丈夫だよ、皆、渡ってるんだから」
「本当に?」
美恵子は恐る恐る俺に付いて来る。
橋の中央に差し掛かかった頃、橋の袂で待つ哲也に俺は大きく片手を振った。
それが吊り橋を「揺らせ」の合図だった。
グラグラ…
最初は小さかった揺れが、だんだんと大きくなってきた。
いいぞ、哲也ちゃん。その調子だ。
何度目かの大きな揺れが古い吊り橋を襲った時だった。

「キャーー」

激しく傾いた橋に美恵子が俺に抱き着こうとする……はずだった。

「えっ、嘘だろ?」

パーーーン!

彼女が乗っていた床版が外れて谷底へ消えて行った。繋いでいたはずの美恵子の手は、するりと俺の手から滑り落ちた。木の欠片の後を追うように、スカートの裾を翻して、落ちていく彼女の最期の姿が目に飛び込んできた。
「助けて、〇ちゃん」
美恵子は確かにそう言った。

「清ちゃーーーーん」
橋の袂で、哲也が叫んだ。
「逃げろ!哲ちゃん、お前、殺人犯になっちゃうぞ」
俺も叫びながら反対側へ走っていた。

この高さから落ちたら助からない。
誰も俺達がこの山に入った事は知らない。橋の整備不良で市の責任になるに違いない。

山を下りながら細い線のような冷たい雨が降って来た。今日のような雨が俺の頬を濡らした。その夜、雨は本格的な土砂降りに変わった。哲也には電話を掛けて
「絶対、黙ってろよ」
何度も念を押した。
「いいか、あれは事故だ。事故だったんだからな」

松下 美恵子の遺体が下流で発見されたのは、それから三日後の事だった。雨が俺達の味方をしてくれたのか、痕跡は残らなかったらしい。


あれからもずっと哲也との友情は続いている。
哲也は俺が自分を被ってくれたと未だに信じ込んでいる。
違うよ、哲ちゃん。
あの時、俺に美恵子は言ったんだ。
「私が好きなのは諏訪部くんよ」
って。
だから俺は繋いでいた手を離したんだ、するっとね。
落ちて行く時も
「助けて、哲ちゃん」
だってさ。

トントン…

「社長、お車の用意が出来ました」
運転手の諏訪部 哲也が満面の笑みで社長室のドアを開けた。
「ご苦労さま、哲ちゃん、なぁ、あの日もこんな雨が降って来たな。飯でも喰って帰るか?」
「はい、社長。喜んで」
哲也は心の中で呟いた。

あの日の前日に橋の手前の『立入禁止』の看板を外したのは俺だよ、清ちゃん。あんな女に清ちゃんを取られたくなかったんだ。あの緩ませておいた床版の上にあの女が乗った時に合わせて俺は……

雨は次第に激しさを増して、あの日の二人の大罪を洗い流すかのように土砂降りに変わっていた。




山根あきらさんの企画に参加させて頂きました。書いているうちに長くなってしまって、申し訳ございません。






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