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「掌編小説」男の気持ち 女の気持ち

「くすぐったいな〜、何してるの?」
ほんの少しの間、崇はうつ伏せになって眠ってしまったらしい。
見上げると麗奈の茶色の細く長い髪が、彼の頬に触れた。
「ハンコ押してるの‼麗奈の物だって‼」
チュッ、チュッ…
崇の裸の背中に何度も何度もそっとくちづけてくる。
麗奈は決して、崇の身体に痕が残るような強く吸うキスはしない。
(可愛い奴だな…)

「もう、俺は全部、麗奈の物だろ?」
何気なく囁いた崇の言葉に麗奈の動きが、ピタリと止まった。
大きな瞳が崇を見つめると長い睫毛の隙間からポロポロと涙が溢れ出した。
「何?どうしたの?俺、何か悪い事言った?」
「じゃあ、今夜は帰らないで‼一緒にいて!? ねぇ、いいでしょう?」
抱きついてくる麗奈の身体は、温かく柔らかかった。
「バカ!明日、仕事だぞ!」
「此処から行けばいいじゃない?」
シャンプー?コロンだろうか?麗奈の身体からフワッと甘い香りが漂い、崇の鼻腔をくすぐった。
(もう一回、やっちゃおうかなぁ~)
誘惑に駆られた瞬間、

ピー、ピー、ピー・・・
ベッドサイドのテーブルに置いた携帯のアラームが鳴った。
崇の脳裡を家で眠る妻と子供の顔が、かすめた。
タイムアウト!

「ごめん、帰らなきゃ」
泣きながら、イヤイヤをする麗奈を崇は更に愛おしく感じる。
(この女には俺しかいない。このお詫びは今度タップリしてあげよう)

崇はベッドから降りると脱ぎ捨ててあったワイシャツとズボンを拾いあげ、素早く身に着けた。


麗奈と出逢ったのは、三ヶ月前だった。
妻の誕生日プレゼントにデパートの慣れない化粧品売場で香水を選んでいた時、偶然同じコロンを手に取ろうとした。
「あっ…」
触れた白い指先には品の良い薄いピンクのネイルが施されていた。
「ごめんなさい」
先に謝ってきたのは、彼女の方だった。
手入れのいき届いた長い髪の中の小さな顔が、すまなそうに崇をみつめている。
「いえ、こちらこそ…」
小さな顔一面にぱっと華が咲いたような笑みが、浮かんだ。

「奥様にですか?」
「えっ、あ、あの…はい」
見惚れていた崇を麗奈の質問が一瞬で現実に引き戻した。

「今年の私の誕生日プレゼントは香水にしてね」
「あぁ…」
「Amazonとかドンキの安売りじゃ、嫌よ。きちんとデパートで選んでね」
「うん、分かったよ」
崇は今朝、妻と交わした会話を思い出していた。


「お詫びに私、一緒に選びましょうか?」
「えっ、でも、それじゃ…」
「だって、男の方って、こういう所、苦手でしょ?」
麗奈は、キャッキャッとはしゃぎながら
「奥様、お歳はお幾つ位かしら?」
「お洋服のご趣味は?」
数々の質問を崇に投げかけて、その度に
「これは?」
「こっちは、どうかしら?」
と崇に香りを嗅がせた。
その度に麗奈の顔が直ぐ傍に近づく。崇は久しぶりの胸の高揚を心地良く感じていた。
妻へのプレゼントが決まり、プレゼント用の包装が手慣れた店員の手で施されていく。
崇はその場を去りたくなかった。
「良かったですね、奥様に素敵なプレゼントが出来て…」
「ありがとう、君のおかげだよ」
「じゃあ、私はこれで…」
立ち去ろうとする麗奈に崇は最大限の勇気をふり絞って言った。
「お礼にこれから、お茶でもどうかな?」
「うーん…嬉しいんですけど、私、これから用事があるんです」
(あぁ、そうか…そうだよな、こんな中年のおっさんと…)
落胆していた崇の目の前に麗奈が一枚の走り書きを手渡した。
「よかったら、いつでも連絡して来て下さい」
悠然と微笑むと麗奈は踵を返して歩き出していた。
ハイヒールの上の細い脚首が、崇の眼に焼きついた。

(素敵な人じゃない)
麗奈は初めて会った崇に好印象を抱いた。


「ごめんね、麗奈。直ぐに逢えるようにするからね」
汗と涙で濡れた麗奈の前髪をかき分け、おでこにキスをして抱きしめる。
「じゃあ、また連絡するよ」
バタン!
崇はシティホテルの扉を閉めて出て行った。



「ふふっ」

シーツを剥いで麗奈は、ベッドの端に腰掛け細いタバコに火を点けた。
フーッ
白い煙がベッドルームにたなびく。煙の残像が消える頃、
(さてと…)
麗奈は自分のスマホを手に取ると電話を掛けた。


「あ、奥様ですか?今、部屋を出ました。
はい、はい、大丈夫。証拠の写真もビデオも取りました。これでタップリ慰謝料請求出来ますね。
ええ、此方のお支払いの方は全て終わってからで結構です。この度は、ありがとうございました。」


崇の妻には、以前から若い恋人が居た。
崇と別れたい!別れて新しい彼と次の人生をやり直したい!!妻はいつの頃からか、そんな思いを抱くようになった。でも若い恋人にも専業主婦をする妻にも先立つ物が無かった。
夫婦生活を営む上で、これといった欠点のない夫と別れても養育費は取れても慰謝料までは取れない。
妻は考えた。
どうせ別れてガッポリ金を取るなら、最後に崇にもいい思いをさせてやろう…
妻はプロの「別れさせ屋」を雇った。


熱いシャワーで身体中を洗い流しながら、麗奈は考えていた。

「でも、どっちが幸せなんだろ?」

愛人との夢を見たまま、貞操な妻だと信じたまま別れる崇と何もかも現実を知っていて、次の現実の生活に走る崇の妻と…

ホテルのカーテンの隙間から、夜の闇がゆっくりと白み始めていた。


「いけないっ!」
麗奈は口の周りにたっぷりとシェービングクリームを塗ると伸びてきた髭にカミソリをあてた。




kayunemu様の素敵なお写真をお借りしました。
ありがとうございました。

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