夜の帳に隠れるふたり
”密会にぴったりの場所だな..”
それがそのお店の入り口に立った時に感じたことだった。
それは"わだつみ"という和食のお店。
場所は渋谷区円山町のホテル街の中に忽然とある。わだつみと描かれている灯篭看板を横目に、決して広くはない門構えを通り、細く奥へ奥へと続く石畳の回廊を歩く。
この先に何が待っているのかという期待と一抹の不安がないまぜになる、不思議な空間。回廊の右手に生けられている白い百合の陰影がとても美しい。
ここを紹介してくれたのは、以前一緒に仕事をしていた営業職のAさんだった。彼は私を今の会社にヘッドハントしてくれ、その後の私の人生を変えてくれた大恩人だ。
都心育ちで渋谷で学生時代を長く過ごした彼は営業職ということもあり、公私で使うためのとびきり素敵なお店を、10や20できかないほど知っている。
私が最初にこのお店を訪れたのは、会食のためだった。
事前に聞いていた話では、ここの建物は築60年以上の古いものであり、昔は芸者の置屋として使われていたとか。そんなエピソードを聞いていたせいもあり、その店が纏う夜の空気はたまらなく淫靡だった。
ここは絶対に夜に訪れてほしい。太陽の白い光のもとで見る隣のホテルの壁が雑然といるのに気づいて興ざめるような気分になるから。
夜のとばりは見たくないものを隠し、ほの暗い小さな明かりは見たいものだけを見せてくれる。
今はもうなくなってしまったメニューなのだが、このお店の個室のカウンターで頂くお寿司のコースは絶品だった。
季節の食材を活かし、繊細に手をかけた和食の品々の最後に、目の前で大将がお寿司を握ってくれる。
ここで初めて頂いた、お勧めの日本酒 ”新正No.6" は私の一番好きな銘柄となった。
個室と言っても6人ほど座れる造りの部屋だったので、その日は私たちの他に2人の男女もいた。狭い空間で漏れ聞こえてくる2人の会話から関係がなんとなく想像できる。
お付き合いしている風でもなく、女性は敬語まじりだ。男性は愛車のBMW 3シリーズのスペックの話をしていた。女性は笑顔で相槌を打ちながら話を聞いていた。興味はないといった表情をおくびにも出さずに。
長く自動車業界にいる身でもあり少しはわかるのだが、男性の乗る自動車のスペックに興味がある女性の割合は1%を切るだろう。
会食を恙無く終えた私たちは、先にわだつみを後にした。
この後の先ほどの2人の行き先はどこだっただろうか?さっきの会話からするとそのまま "じゃあ、また”と別れたのだろうと思うけれど、さてどうだろう。
そんなことを邪推しつつ、恋の歌をいくつか。
上下する喉仏だけが視野にあり 琥珀に透ける液体の先
未来などわからないよと君は言う 1秒先の動きは知りつつ
饒舌に語る足先絡めては 別れの予感を味わってをり
どれかの31文字があなたの中で拡散しますように。
では、また。
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