見出し画像

可能性を閉じる、という選択。

たとえばわたしが日々の生活の中で、根も葉もない誰かの噂に翻弄されて、傷ついて、くじけそうになったとして。

そんなの、気にしなきゃいいじゃない。

と、ひとことで一蹴できないときは、心が疲れている証拠。

「何を選ぶのか」の陰にはいつも「何を選ばないか」の意志が潜んでいる

なんて言葉を憧れのお姉さまがたが口を揃えて言うその姿を、わたしはただ何となく見つめているだけだった。

「sanmariの頭の中は、お花畑だよね」なんて言われることが、時たまある。

わたしは周りの人たちからものっすごく愛されていると信じて疑っていなかったし、出会ったご縁はすべて運命だから大事にしないと、と本気で思っていた。

大学院を修了して、仕事を始めて、オンラインコミュニティに居場所ができて。今までわたしの身近になかった価値観だったり、職業観をもつ人との出会いがぐっと増えた。

すると、「こうすべきだから」とレールの上を歩くだけじゃなく、自分で取捨選択して「自分が納得できるから」と胸を張って言えるオトナたちがこの世界にはたくさん存在することが見えてきて。

彼ら彼女らは、たぶん、わたしの何倍も辛いことやどうしようもないことにぶつかってきて、その度に何かを「選んできた」そんなオトナたちで。絶対に、目の前にいる等身大の「あなた」を尊重している。

たぶん、「あなた」に関する根も葉もない噂だったり、悪口だったりだって目にしてはいるだろう。だって、人間だから。

それでも、誰のせいにもしないで自分の五感を信じて必要な情報を選び、不必要な情報を選ばないで、相手を見ている。だからこそ、誰かを悪く言うことは決してないし、それどころか相手のいいところを見つける才能に溢れている。

与えられた人=運命の出会い

も確かに幸せな考え方かもしれないけれど、わたしがどんなモチベーションで生活をしていきたいのか、どんなオトナになりたいのかを考えながら、人付き合いも、他者への評価も自分で取捨選択していってもいいのかな。可能性は広げるだけじゃなくて、時には行きたくない方向の可能性をそっと閉じる選択肢をもつのも悪くないのかもしれないな。なんてことを、春の日差しをポカポカと浴びながらふと考えた。

というのも、「そんなの」に惑わされちゃう可能性は閉じないと!と友人に言われて、パッと世界が明るくなったからなんだけれども。

ほらね。わたしは仕事だってお家だって友達だって、「選べる」という幸福をもっているんだよ。不安に押しつぶされちゃいそうな時には、不安にさせるものにそっと蓋をしてもいいんだよ。そんな簡単なことを、26歳にしてようやく知った今日この頃。




見に来てくださりありがとうございます。サポート、とっても心の励みになります。みなさまからのサポートで、わたしの「ときめき」を探してまたnoteにつらつらと書いていきます。