音の世界と音のない世界の狭間で⑤
きこえない人あるあるだと思うんだけど、初対面の人に会うたびによくたずねられること。
あなた、ろう?難聴?
どちらと答えても相手にがっかりされることがある。
。。。
どう答えるのが正解なんでしょう。
ちなみに、東京都聴覚障害者連盟のHPによると
ろう者
・補聴器等をつけても音声が判別できない場合
・手話を母語もしくは主なコミュニケーション手段とする人
難聴者
・残存聴力を活用してある程度聞き取れる
・音声言語が中心で手話を使わないか補助程度の人
とするらしい。
これだけみると、補聴器を活用して音声だけの世界も楽しむわたしは難聴者なんだろう。
なんて思いつつも
補聴器をとった静かな世界も
手話でおしゃべりをする時間も
わたしにとっては大切なんだよなぁと思うと一概にどちらと選択することはできないので
最初から「聴覚障害があります」と自己紹介を済ませちゃうようにしている。(ろう・難聴問題は語り始めたらきりがないのでまた今度。アイデンティティっていうデリケートな問題が絡んでくるから、定義云々で片付けられることではないんだろうなぁとは思ってます。)
さてここでは
「聴覚障害がある」
という表現をした。
これと似た表現で
「障害をもっている」
っていう言い方がある。
大学時代、この2つの表現についてじっくり考える機会があったから、ちょっと思い出して忘備録のような備忘録にしておく。
「ある」は「在る」であり「存在すること」
わたしには、聴覚障害が存在する。
事実だ。
「持つ」は基本的に「手に持てるもの」を指す。
確かに「ある性質・状態などを有する」っていう意味もあるけれど「手放すことができるもの」とも捉えられるのではないでしょうか。
例えば辞書に載っていた
「ピアニストの素質をもつ」
について。
ピアニストには、ピアノをやめるという選択肢がある。でも、残念ながら障害は手放したくても手放せない。
**一生つきまとう。 **
仮に世界が聴覚障害者だけだったとしよう。
きこえないことに不便を感じるだろうか。それが普通だったら、きっと、感じないだろう。
でも、今生きているこの社会で、きこえないことは正直不便だ。
たとえば
お店で買い物をするときに値段が聞き取れなくて、毎回きっとこれくらいだろうと思う金額を多めに払って、財布に小銭が増える。(と考えると、キャッシュレス決済はすごくユニバーサルデザインだと思う)
突然電車が止まった理由が、事故なのか信号停止なのかわからなくて、そわそわする。
音声だけでなされているコミュニーケーションがわからなくて、相手に話しかけたら実は話し中で、空気を読めない人みたいな扱いを受ける。
もし世界が聴覚障害者だけになったら
金額は視覚的に表す(書くなり手指表現をするなり)だろうし
電車のちょっとした情報も文字情報として流すだろうし
どの人とどの人が話しているか見えるから、空気は読みやすくなるだろう。
これが全てではないにしろ、障害は個人が「もっている」ものではなく
社会に「ある」ものとも捉えられるのではないでしょうか。
こう考えると、
「障害をもつ人」
っていう表現は、ちょっと無責任なんじゃないかと思うわけです。
下の記事で幡野広志さんは人工呼吸器のこどもを身体障害のある子と表現した。
幡野さんの言葉のセンスにただ感動した。
幡野さんはこのコラムでさらに、関係性と距離間についても触れている。
他の誰かに向けられた言葉でも
自分にもあてはまることがあると
おもわずギクッとしちゃいますよね。
そうなんです。
自分自身が、きこえにくいから
だからこそ共感できて
だからこそ彼の言葉がピタッとはまるものだから受け入れられた。
そんな諸々を考え抜かれた文章を書くってすごいなぁと思ったのです。
音のない世界と音の世界の狭間で
シリーズ
きっとそれは、障害をある種マイナスに捉えていたわたしが、めぐりめぐって、わたしの世界をおもしろがってくれる人に出会い、相手の見える世界をおもしろがれるようになったからなんじゃないかと過去の記事を見ながら思ったりするわけです。
これからも、聴覚障害のあるわたしの世界をおもしろがっていきたいし、おもしろがってくれる人と出会っていきたいなぁ。。。
なぁんてね。
今日も一日お疲れ様でした☺︎
東京都聴覚障害者連盟HP
見に来てくださりありがとうございます。サポート、とっても心の励みになります。みなさまからのサポートで、わたしの「ときめき」を探してまたnoteにつらつらと書いていきます。