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学習における合理性と倫理

先日、Yahoo!ニュースで興味深い記事を目にした。

ある中学校の理科の授業で「唾液アミラーゼの働き」を調べる課題が出された際、生徒の半数が同じ答えを書いて不正解になったという記事だ。
その誤答はと言えば、「唾液アミラーゼは、食べ物に含まれるでんぷんを分解し、胃で消化されやすくなる」というもの。胃はでんぷんの消化に関わっておらず、標準的な教科書にこのような記述が載せられているはずがない。それにもかかわらず同じ誤答が続出するということは……と察した教諭がさっそく生成AIに課題への答えを問うてみると、やはり大量に提出された誤答と全く同じ説明が返されたとのこと。

そこから先の対応も瞠目すべきものだ。
まず、生成AIが参照したと思われる不適切な記述がキューピーのWebサイト上に見られることを突き止め、X(旧Twitter)上の投稿で修正を呼びかけて実現させたこと。また、生徒に対しては生成AIの回答丸写しを単純に咎め立てるのではなく、何の検証もせずにAIが生成した情報を信じ込むことのリスクを教える機会とした機転。結局、生徒達は改めて教科書の説明を参照することででんぷんの消化が行われる器官が口と十二指腸であることを確認し、衝撃的なエピソードの存在と相俟ってより深い理解と定着に繋がったのではないかとされている。

このような対応はなかなか出来るものじゃない。
まず、生徒の半数以上が同じ誤答を書いてきている時点でほとんどの教師は「誰かの答えを写す」という「不正」を直感するだろう。あるいはインターネット上の答えを丸写ししたのかなという所までは考えが及ぶかもしれない。
その後に考えられがちなのは、「いかに生徒を叱るか」だ。こうした「不正」を窺わせる現象に直面すると、教師というのは条件反射的に学習態度や倫理の面を真っ先に意識せざるを得ない。つまり、「半数以上が同じ誤答を書いてきた」という「有り得べからざる」現象が生じたことがもう問題なのであって、それが特定の生徒の答えを皆が写したからなのか、共通の情報源を多くの生徒が参照してしまったからなのかはさして重要じゃない。
ところが、この先生は違った。この誤りが生成AIの利用に起因するのではないかと推測し(実際、多くの生徒が課題に取り組む際に生成AIを使用したことを認めている)、「生成AIを用いて効果的に学習するには」という観点からこの出来事を教育の材料へと転じている。その際、教師としての問題意識は「生徒が課題をこなす際に生成AIを用いたこと」にではなく、「生成AIの回答を精査しなかったことで不正確な知識が学習された」という「情報リテラシーの不足」に置かれていたはずだ。そこには、学びにおいて重要なのは「どのように」学ぶかという「手段」ではなく、「何を」「どのくらい」学べたかという「結果」なのだと考える合理性の透徹が感じられる。

個人的には、このような対応は素晴らしいものだと思う。ただ、その一方でこれは「学習」という営みへの個々の方法論や哲学が問われる場面でもあると言え、人によって理想とする対応は異なるだろう。
まず、学びにおいて生成AIに頼るのを是とすべきかという問題を避けることはできない。
AI技術の爆発的な発展が現実のものとなり、社会の趨勢としてはどちらかと言えばAIをツールとして有効に利用すべきだという論調に傾きつつあるようには思う。記事によれば、件の先生も課題を与えるに際して生成AIの使用を禁じてはいなかったようだ。ゆえに、上述のような指導は当然の対応と言える。
他方、生成AIの利用を快く思わない教育者がまだ一定数いるのも事実だ。こうした人々は基本的に自分で考えることをせず、解答をすぐに求めたがる生徒に対し否定的である。極端な場合には、教材を配布する際にわざわざ別冊解答を取り外しておく教師や学校もあったりする。正解がわからなくて何が勉強になるのかとも思うのだけど、「自分の力でできることをやる」という姿勢を重視するなら、テキストの問題が理解できるかどうか、身につくかどうかは副次的な関心に過ぎないのかもしれない。

そう、結局は学習や課題のテーマに何を据えるかによって解答や生成AIを利用することの意味は全く変わってくる。ゆえに、何が「正解」なのかを一義的に決することは難しい。生徒に求められるのが「効率的に正解を得ること」や「できるだけたくさんの知識を頭に入れること」なのであれば、自分の頭で考えたり、テキストの記述から時間をかけて答えの手がかりを探したりといった学び方は非合理に尽きる。けれども、自分の記憶をたどり直したりテキストを読み返してみたりすれば自ずと関連する単元の知識や文脈が再確認され、理解と定着を深めるうえで有益でもある。また、正解を覚えることに指導の重点が置かれていたとしても、多くの生徒は解答や生成AIなどが端的に示す記述を書き写すのみで、それを自発的に覚えようとしないことが十分に予想される。そうした場合、学習の効率は落ちるにしても強制的に手間をかけさせた方が得られる効果は大きいかもしれない。

大事なのは、課題を与える側が何を重視しているかだ。そして、その意図は学習者と共有されているのが望ましい。
たとえば冒頭の理科の課題について言うと、単に生成AIの利用を許可するだけでなく、予めAIがもたらす回答の不正確さと検証の重要性を言い含めたうえで取り組ませれば、より有益な学習の機会になっていたかもしれない。また、生成AIの利用を禁じるならばその意図が生徒にきちんと納得されている必要がある。そうでなければ、結局は生成AIの回答に少し手を加えて書き換えてみたり、事によれば回答を「いい具合に」言い換えた文章のアレンジ自体を再度AIに要求するといった「不正の高度化」が進むばかりだろう。もちろん、そうした要領はある意味で有意義な「学習」の一側面だと言えなくもない。ただ、それが指導者の意図するところでないならばやはり問題である。

個人的に興味深いのが、生成AIを使うことを是とするならば他の生徒の解答を写すという課題解決法はどう評価すべきなのかという問題だ。
この比較においては問い合わせる相手が生身の人間かAIかの違いしかなく、どちらも回答には絶対の信頼が置けないという点も共通している。人間の方が多少は質問者の意図を汲もうと努力してくれる面はあるかもしれないが、面と向かって質問するにせよ、プロンプトを通じて回答を生成させるにせよ、適切な問いを投げ掛けなければ欲しい答えも求められないといった点も概ね同じだ。むしろ、プロンプトを与えれば確実に答えを返してくれる生成AIに尋ねる以上に、人間に答えを求める試みはハードルが高い。コミュニケーション技術が必要になるだけではなく、それ以前の問題として答えを教えてくれるような友人(それも信頼の置ける!)との関係を構築できるかという社交スキルも問われるからだ。ある意味で生成AIの使用を許可するよりも、誰かと相談して答えを考えることを許可した方が色々と学ぶべきことは多いのかもしれない。
いずれにせよ、生成AIの利用を認めながら他の学生の答えを写すことを認めないという方針はどうにも合理性を欠くような気がする。

ただ、他の学生の答えを写すという行為が「不正」とは言えないという結論は、個人的にもどうも座りが悪く感じられる。それはなぜなのだろう?
生成AIと生身の人間とで決定的に異なるのは、人間相手の場合、答えを教える側と教えられる側との間に「損得」の関係が意識される点だ。
ある課題に対し、きちんと自分の頭で考えたり勉強したりして取り組んだ人は時間や労力といったコストと引き換えに成果を手にする。その答えを丸写しするという行為は、自らはそうしたコストを負担することなく同等の成果を手にしようとする試みにほかならない。こうした「ただ乗り」の許容を倫理的に認め難いと感じる心情の存在は無視できない。
この「損得」の関係は場合によっては逆転する可能性もある。たとえば、ある人が答えを写させてもらうことによって相手に貸しを作り、別の場面で大きな負担を要請されてしまうような場合だ。「宿題を再三写させてやったのだからラーメンぐらい奢れ(大きな負担?)」とか。
もちろん、何らかの形で「貸し借り」の関係が解消されるならば問題ないと割り切る向きもあるだろう。ただ、社会生活における損得や人間関係における「貸し借り」を完璧に定量化するのは難しい。ゆえに、当事者の少なくとも一方(あるいは両方とも)が「自分の方が損している」という感覚を抱いてしまうケースは少なくないように思う。
自分の行為やコミュニケーションが招く帰結に自ら責任を負うことが求められる大人であれば、様々な「貸し借り」を状況や「損得」の勘定に基づいて判断しても差し支えないし、それはむしろ社会人としてある程度必要な社交スキルであるとも言える。しかし、十分な判断能力や責任の伴わない年少者がそうした「損得」を介した「取引」に無自覚のまま関わるのは望ましいことではない。
つまり、結果として当人たちが望まない「損得」の差を生んでしまうがゆえに誰かの答えを丸写しすることを認めるべきじゃないという指導は十分に合理性があるのではないかと思う。翻って、生成AIそれ自体が実社会における「損得」を人間と争うことはない。だから、生成AIの回答を丸写しすることは誰かに答えを写させてもらうことに比べて倫理的に好ましいと感じられるのかもしれない。
ただ、その一方で人間は社会関係における「損得」や「貸し借り」を徐々に意識できるようになることが求められもする。その比較的穏当な形での演習課題として、答えを誰かに見せてもらう行為を明示的に許可するという教育もまた成立し得るだろう。もちろん、この場合も課題の意図や目的が生徒と共有されている必要はある。

俺達が教育について語る時、その関心はテストで測定されるような認知能力の発達に向けられることが多い。けれども認知能力を形成するための学習や課題はほとんどの場合何らかの非認知能力の形成にも関わりを持つ。いわゆる「要領のいい」学習が「誠実さ」や「根気」といった人間の美徳に及ぼす影響も十分に意識されるべきだろう。
効率性が重視され、AIなどの先端技術の発達や導入が総じて好意的に見られる現代において、「誠実さ」や「根気」といった非認知能力に関わる資質は時に「前時代的」な精神論と一緒くたにされ、ともすれば捨象されがちだ。もちろん、学習の局面によっては合理性が前面に引き出されるべき時もあるだろう。ただ、現代に至る歴史を築き上げてきた人間の愚直さが社会から軽んじられるようになったとき、そこにどのような未来が生じるのか、俺達は十分に想像できていない。そこに現代の抱えるリスクが潜んでいる。
個々人の合理的行動が全体としての不合理をもたらす「合成の誤謬」の存在は既によく知られているはずだ。ゆえに、学習という営みを合理性の観点のみから捉えるような教育には慎重でなければならないと思う。

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