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コンドル諸国漫遊

これまで「コンドルは飛んでいく」の歌について、サイモン&ガーファンクル版の英詞、楽曲が生まれた南米で歌われるスペイン語詞とケチュア語詞、そして日本語詞を紹介してきた。

何せ世界的に有名な曲。日本で歌われるぐらいだから、もちろん他の国々にも母国語でのカバーがあるはず。

ということで、今回は諸言語で歌われる「コンドルは飛んでいく」を特集してみたい。なお、歌詞の大意はGoogle翻訳を参考にした。

イタリア

まずはスペイン語に近いイタリア語版から。歌詞の内容はひと時の愛の訪れとその終わりをコンドルに喩える斬新なもの。飛び去るコンドルのように離れていく恋人が二度と戻らないことを予感し、残された我が心の悲痛を嘆くという、いかにもイタリアらしい熱情を描く詞だ。
ちなみにイタリア語版のタイトルは「Il Condor(The Condor)」で、実に単純極まりない。一見すると「もっと考えろよ!」と突っ込みたくなるが、よくよく考えてみれば、取り残された側が去りゆく恋人の姿をあれこれと形容するなんて心境にはなりがたいもの。そう考えると、言いようのない悲しみを「コンドル」の一語に凝縮させたタイトルはなかなかに味わい深い。

ブラジル

同じく情熱的なラテン系のブラジルより。こちらも愛の歌だが、イタリア語版とは大きく異なり、自分を包み守ってくれる恋人の腕を空に、我が身を空を飛ぶ鳥に喩えるという二人きりの幸せを歌った詞。
基本的なアレンジはサイモン&ガーファンクルなのだけど、歌に入ると唐突にボサノヴァやサンバでよく使われるベースのラインが登場してきて、面白い。
ちなみに、タイトルは「No Céu dos Braços Teus(あなたの腕の空で)」。

フランス

同じロマンス語圏でも、フランス語版はかなり趣を異にする。サイモン&ガーファンクルの詞とは全く違うのだけど、同様に、いやそれ以上に抽象的で哲学的な詞だ。アンデスの道を、男が苦しみと喜びを歌いながら行く。空飛ぶコンドル(詞の中では「鷲」と表現されている)を目にした彼は、空を手中に収める喜びを問うのだけど、コンドルは答えない。彼の叫びは地にこだまし、夜に飲み込まれるばかり。そして、彼は再びアンデスの道を行くのだと。
人生とは苦しみばかりでもなく、喜びばかりでもない。そうした悲喜こもごもを引き受けて人は歩み続けるしかないのだと聞こえる。このちょっと冷めた眼差しがいかにもフランス風?
タイトルは「Sur le Chemin des Andes(アンデスの道で)」。

ドイツ

ロマンス語圏を離れ、ドイツ語版へ。もっとも、歌っているのはSemino Rossiというアルゼンチン出身の歌手らしい。
ドイツ語版の歌詞は自由で情熱的な愛を歌うという点でブラジル版に似ている。ただ、ブラジル版が自らを恋人の腕(=空)に包まれた鳥に見立て、「将来がどうなってもいい。今この時の幸せを感じたい!」という詞なのに対し、この歌詞は2人の愛をコンドルに見立て、「愛が私達を高めてくれる!どこまでも飛んでいける!」といった未来志向の詞である点で趣を異にする。
タイトルは「Ich Will Mein Herz Verlieren(心を失いたい)」。
ところで、この人むちゃくちゃ歌上手いな!

台湾

さて、舞台はアジアへ。おそらく日本人にとって最も馴染みのあるのが鄧麗君(テレサ・テン)さんの歌唱だろう。
愛する人との別れを歌っている点ではイタリア語版に似ている。ただ、こちらは別れをコンドルではなく、去りゆく船に喩えたもの。また、イタリア語版は唐突に訪れた出会いと別れといった劇的な情景が描かれているのに対し、この詞では長い時間をかけて育み合った愛が失われるといった趣が感じられる。
まあ、どちらもGoogle翻訳を通しての解釈だから何とも言えないのだけど。
タイトルは「舊夢何處尋(昔の夢はどこに)」。

ベトナム

次はベトナム版。こちらは望郷の歌。秋風に乗って飛んでいく落ち葉の行く先に故郷の古い茅葺き屋根を思い、不意に悲しみを感じるという詞で、ケチュア語版の歌詞と似た方向性だ。もっとも、ケチュア語詞のように「私を故郷へ連れて行ってくれ」という内容ではなく、どちらかと言えば帰ることができない運命を覚悟しているような印象も受ける悲しい歌。
タイトルは「Nhớ Chốn Quê Nhà(故郷が恋しい)」という歌詞通りのストレートなもの。


いかがだっただろう。個人的には色々な国の「コンドルは飛んでいく」を聴き比べてみて、日本との対比で興味深く感じた点が幾つかある。

まず、今回取り上げた国々におけるカバー詞では、ポール・サイモンの英詞や現地のスペイン語詞を無視した全くオリジナルの詞がつけられていた点だ。それに対し、日本語詞ではもちろんオリジナルも見られるが、越路吹雪さんらに歌われた詞や唱歌バージョンの詞のように、ポール・サイモンによる歌詞の翻訳を大筋とする歌詞も見られる。
また、日本人によるカバーが実に多彩であったのに対し、海外のものはあまりバリエーションを見つけることができなかった。もちろん、上手く検索すればもっと色々な種類のものが発見できたのかもしれないけど。

オリジナル詞の方向性にも大きな違いがある。日本語詞は概ねコンドルの描写を曲中に登場させたがるのに対し、海外の詞ではコンドルが全く登場しないか、登場してもその扱いは比喩的・象徴的なものに留められる。
もっと意外なのは、「コンドルは飛んでいく」の旋律から恋人同士の愛や別れをイメージした詞が多かったことだ。コンドルというのは結構いかつい風貌の鳥なのであまりロマンスにはそぐわない気がするのだが。イタリア語版を除けばコンドルという言葉が使われず、単に鳥や船がメタファーとして用いられているのはそのためだろうか。

さらに、構成面でも顕著な差が見られた。海外版はいずれもサイモン&ガーファンクルの編曲と同じく「第一部」の歌唱で終了している一方、日本語版には「第三部」の歌唱まで加えられているものがしばしば見られる。これはサイモン&ガーファンクルの影響というよりも、「コンドルは飛んでいく」のスペイン語詞版、特にインカ帝国のイメージを念頭に置いた歌唱の編曲を意識したものだろう。

以上を踏まえてまとめると、海外における「コンドルは飛んでいく」のアレンジはサイモン&ガーファンクルの「El Cóndor Pasa (If I Could)」にインスピレーションを受けたものが多いようだが、ポール・サイモンがロス・インカスによるインストゥルメンタル・アレンジに独自の詞をつけたのと同じく、あくまでも楽曲全体の雰囲気を汲みつつ独自の解釈を表現していく方向で創造されていったのだろう。
それに比べると日本語版は原曲や、その礎となったフォルクローレへの敬意が強いと感じる。明らかにポール・サイモンの詞の訳であるとわかるバージョンが複数存在するのに加え、南米のアーティストがコンドルとインカとの結びつきを意識して詞をつけたのに倣い、日本語でインカを歌った詞が幾つか見られた。また、それらの歌唱は通常省略されがちな「第三部」の歌唱を伴うのが特徴的で、この辺もフォルクローレ・スタイルが意識して踏襲されているように思う。

個人的には、日本でこの曲を海外版のように「換骨奪胎」した独自の詞が生まれなかったことが興味深い。(もちろん、趣味レベルで作っている人はいるのだろうけど)
何せ、「見立て」というのは日本が誇る奥深い表現技法である。コンドルをそのまま登場させないまでも、イヌワシやらホトトギスやら、他の鳥に置き換えて日本ならではの情緒を歌うような詞があってもよかったのではないか。

あるいはそれが許されないと思われるほどに、「コンドルは飛んでいく」という楽曲の調べは日本人の心を鷲掴みにし、既にあるイメージを忠実に受け入れなぞることを強いてしまったのだろうか。

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