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「理系重視」は周回遅れ?

STEM教育という言葉を聞いたことがあるだろうか。もしかすると、今では初耳だという人の方が少数かもしれない。言うまでもなく、Science、Technology、Engineering、Mathematicsに通じた人材を育成するという教育目標から、それらの頭文字を繋げて創られた名称だ。世間的に言う「理系人材」を育てる試みを象徴する語だと言える。

そして、「今更STEM教育だなんて古い」と突っ込みたくなった人もいることだろう。今はこれにArtが加わってSTEAM教育と呼ばれる場合がほとんどだ。文部科学省も「STEAM教育等の各教科等横断的な学習の推進」と題し、社会における課題解決、価値創造に資する人材育成の鍵としてSTEAM教育を位置づけている。

STEM教育にArtが加えられた背景には、当然ながら科学技術を通じた社会変革や価値創造には従来の「理系」的観点のみならず「文系」的観点も不可欠であるとの問題意識が存在する。この場合のArtは単に芸術や哲学などに代表される人文科学的な領域に限らず、経済や法律といった社会科学的な領域も包摂する概念だ。科学技術の発展が要請する人間生活の有り様の変化に対応し、社会制度や倫理、価値意識といったものも同時に変わっていかなければならないという課題認識を表したものだと言えよう。

ただ、STEAM教育という言葉には今だ「理系教育の充実」というイメージが付き纏う。元々STEMという略語が先行して創られたという事情があるにせよ、「理系」の学問領域が4つの分野に細分化されているのに対し、「文系」の領域は人文科学から社会科学まで大雑把に「Art」として束ねられ、いかにも後から付け足されたといった風情でSTEAMという名称に組み込まれている。そのせいか、「そうそう、理系分野だけじゃなく文系分野も大事だよね。わかってるって」といった軽さが感じられてしまうのだ。
実際、「STEM」分野の課題は明確に具体化され、世間にも広く喧伝されている。再生医療、宇宙開発、人工知能、量子コンピューター……そうしたテーマを日々のニュースや新聞で目にしない日は無いほどだし、こうした分野での出遅れが日本の後退や衰退に繋がり得るという危機感はなるほどわかりやすい。
その一方で、新技術の開発と普及に牽引される人間社会の発達が「Art」の分野においてどのような課題を投げ掛けているかと問われると、明確に答えられる人は途端に少なくなるのではないか。まして、そうした課題の発見や解決に資する人材を育てるためにどのような教育が必要なのか、そのイメージが社会できちんと共有されているとは思えない。

「理系」重視への偏りは教育行政に限らず、世間一般の認識にも見られる傾向だ。「文系」学部は削減すべきとか、「理系」人材の給与を引き上げることによって「理系」志望者を増やすべきといった主張は官僚や教育者以外の民間人からもしばしば聞かれる。また、「理系」を名乗れば「頭いい〜!」といった反応もたまには期待できなくもないのに対し、「文系」と名乗ることで同じ驚嘆や称賛の言を受けることは絶対に有り得ない。つまり、「理系=優秀」というイメージは多くの人が共通して抱いているものなのだ。
もちろん、そこにはひと欠片の現実も含まれる。そもそもどうして「理系=優秀」という図式が成立してしまうのか。それは単位取得や卒業に要する学習の量、および負荷の大きさについていえば、圧倒的に「理系」の方が大変だからだ。
高校の物理や化学をものにしようと思えば学校の授業だけでは到底足りない。何度も教科書を読み直したり問題集を解き直したりして、ようやく試験を受けるためのスタートラインに立つことができる。実際に良い成績を収めたり、初見の問題でも解けるような水準にまで習熟度を深めようと思えばさらなる演習が必要だ。他方、古典や歴史ならば日本語の文章さえ読めれば最初からある程度は理解できる。もちろん、そこから先の学問的な難しさはあるにはあるのだけど、少なくとも試験への対応だけで考えるなら結果の大部分を左右するのは単純に知識の有無だったりする。「理系」選択者の多くが日頃から勉強に忙殺される中で、「文系」の生徒になると試験期間直前にしか勉強しないという例も珍しくはない。
さらに大学に入ったら入ったで、学問の難しさはもちろんのこと、多くの「理系」学生には「実験」という重荷が与えられる。レポート提出のみで単位が取得できる科目も少なくない「文系」学生がサークル活動やアルバイトに精を出すのを横目に見ながら、「理系」学生は演習のための学習に加え、実験レポートの作成といった課題にも追われて青息吐息の学生生活を送らねばならない。
こうした「理系」に特有の厳しさを乗り越えるには、単に分野への関心のみならず理解力や要領、根気といった素養が不可欠だ。理解できるまで考え尽くす、習熟のために努力する、そうした取り組みができない人はそもそも「理系」でやっていけない。
つまり、「文系」にはそうした認知的・非認知的能力が不足しているがゆえに「理系」へと進めなかった人、というイメージが付き纏ってしまう。本人達も概ねその自覚があるので、「理系」と聞けば羨んだり褒めそやしたりする裏側でどうしても自身の卑屈な感情と向き合わなければならないのだ。

ただ、こうした現実の存在は必ずしも「文系」の重要性を毀損するものではない。文科省がArtを加えたSTEAM教育の重要性を謳っていることからもわかるように、科学技術の発展を人間生活の向上へと繋げようと思うならば「文系」的な知見は必要不可欠だ。
要は、「文系」の方が「理系」に比べて楽だという実情が放置されている教育の現実にこそ問題があると言えるのではないか。
大学時代に「文系」から「理系」へと転向した自身の経験を顧みても、「文系」の学問には「現実にアクセスする回路」のイメージが乏しいという問題がある。文学的な素養や歴史の知識が増えることで教養をひけらかしたり、過去の出来事をもっともらしく説明したりすることはできるようになるかもしれない。ただ、それらを通じてどのように今の現実と関わり未来を形作っていくのか、そのイメージを明確に持つことは難しい。まさに「古典や歴史を学んで何の役に立つの?」という素朴かつ皮相的な問いを突きつけられ、「文系」人間の多くは立ち往生してしまう。戦史や国際関係史を研究しているのならウクライナやガザ地区の紛争を止めてみせろよと、経済学の専門家なら不況や所得格差の問題を解決してみせろよと迫られても、過去の出来事をなぞるだけの理論研究では答えを導くことができない。そこには将来の展望や、もっと言えば人間存在への洞察といった抽象概念を積極的に構築し、現実世界へと還元していく創造的な知というものが必要になる。
本来、「文系」の学問はそうした領域に挑まなければならない。けれども現行の教育は既存の理論や知識の習得および解釈に終始するばかりで、その先にある「現実にアクセスする回路」の形成過程は専ら当人任せだ。
いや、実際には大学でもそうした遠大な展望のもとに研究や教育が行われているのかもしれない。ただ、残念ながらそれはほとんどの学生に、ましてや世間一般に十分理解されているとは言い難い。

俺達が直面する社会の課題に対する明確な答えを提示できないこと、それこそがまさに「文系」学問が軽んじられる理由であるのは間違いない。
けれども、実のところ「文系」の学問の意義はむしろ「答えが出せない」点にこそあるのではないかとも思う。
たとえば、ある遺伝病に関してそこに関与する遺伝子やその調節機構を明らかにすることは可能かもしれない。科学的な現象は定義的に何らかの自然法則や因果関係に基づくものであり、人間がそれを正確に看取できるかどうかはともかくとして、そこには少なくとも何らかの「正解」の存在が措定される。一度その現象が解明されれば、理論の普遍性ゆえに俺達はそこから様々な理論を発展させ、ある課題を解決するための具体的なアプローチを描くことが可能にもなる。
では、仮に遺伝病の発現機構が完璧に理解できたとして、人間はそれをゲノム編集などの技術によって無からしめることを是とすべきなのか?
これは答えの出せない問いだ。ある人は生命倫理に反するからという理由で遺伝子操作技術に否定的な見解を抱き、またある人は倫理などという抽象概念よりも個人の生の充実という具体的な意義を重視してゲノム編集を推奨しようとするかもしれない。
その「正解」を定めることはできない。できるのは、意見や価値観の相違を抱えた者同士が対話を通じて妥結点を見出し、それを暫定的な決め事に過ぎないと弁えて絶えず見直しを図り続けることのみだ。
人間が自然法則の矩を越え、倫理や感情といった単純合理性の埒外にある行動原理に基づいて社会生活を営む存在である以上、こうした問いは常に俺達に付き纏う。「文系」の学問とはそうした問いに向き合い続けてきた歴史の集積であるし、これからもそうであるべきだ。

もし、「文系」の学問を「役に立たない」と切って捨てるならば、それは既に人の営みを「役に立つ/立たない」という二分法によって評価する狭隘な思考に囚われている。有用性という観点があくまでも数ある可能性の一つであり、暫定的な価値基準に過ぎないことを理解していない。
現実には、有用であることが必ずしも人の幸福を保証し得るわけではない。また、有用性の基準も時代や共同体によって変わり得るものだ。にもかかわらず単純化された価値基準を絶対視しそれに固執する姿勢は、歴史上数々の為政者を破滅させ、共同体を衰退させる遠因であり続けてきた。その影響は人間社会に留まらない。利便性や経済的利益の追求を是として疑わない資本主義への偏向は格差の拡大や環境破壊といった経済の外部性への目配りを欠き、人類そのものの存亡という問題を俺達に突きつける結果となっている。
けれども皮肉なことに、人間社会が孕む危機が急速に膨張するのと軌を一にするかのように、俺達の思考の単純化もまた加速されている印象だ。SNS空間の広がりは嗜好や衝動に基づく脊髄反射的な反応を人々に促し、そうした反応を解析するAIは利用者の選好と合致する情報コンテンツの提示を通じてその価値観を再強化しようとする。もはや俺達は自分が抱える価値意識や倫理観といったものに疑いの目を向けることさえ難しい。スピード化する社会はそうした逡巡を抱く者を容赦なく振り落としていく。

「文系」の学問というのは、いわば社会にとってのブレーキだ。
アクセルを踏むだけならば、確かに俺達はより速く、遠くまで行くことができる。それを望む者にとっては、ブレーキとは不要で邪魔な存在に過ぎないのかもしれない。
じゃあ、ブレーキの付いていない乗り物が最善なのかと言われればそんなことはない。一度道を誤れば、それは奈落へと突き進む未来の到来を加速させることにしかならないし、途中で転倒するリスクも大きくなるのは自明のことだ。科学技術という社会の駆動装置の加速性能が高まるのに応じ、その速度を制御し舵取りを誤らせないブレーキの性能も一層重要性を帯びてくるはずなのだ。
STEAM教育にArtが含まれるべき理由はそうした点にある。それを単に、科学技術だけでなく芸術や文化などのコンテンツ産業も利益や豊かさの源泉になり得るといった即物的、実利的な観点からしか捉えられないのではこれからの教育の課題を見誤ってしまう。

「理系」と「文系」の学問はともに発展させられなくてはならない。俺は今まで「理系」「文系」を括弧書きにしてきたのだが、それはそもそも「理系」や「文系」という枠自体が取り払われるべきものだと考えているからだ。
「理系」「文系」の便宜的区分は、多くの人に「理系(文系)は文系(理系)分野が苦手で当然」という意識を植え付けてきた。そして、資本主義社会における経済的合理性の追求と科学技術との蜜月は人々に「理系」の優位を錯覚させ、「文系」の軽視と停滞を招いている。
けれども、十年前には想像だにしなかった技術が普及するといった劇的変化に人類が直面する中、もはや自然科学やエンジニアリングが人間や社会についての考察を置き去りにすることは許されなくなりつつある。

人間の脳神経のネットワークを模して開発されるAIは最終的に人間が「意識」と呼ぶものを獲得し得るのか。そもそも「意識」とはどのようなもので、俺達は動物からAIに至るまでどの水準の知覚を「意識」として扱い、尊厳を認めるべきなのか。

自身あるいは我が子の遺伝子が宿命的に避けがたい難病や障害を引き起こし得ることがわかったとき、俺達はそのような生命にどう向き合うべきなのか。遺伝子治療技術の発達がその運命を変え得るのだとしたら、俺達は生命の設計図を書き換えるという「神の領域」にまで踏み込むことが許されるのか。

AIやゲノム編集といった技術は社会に対し、個人に対し、そうした答え難い、されど無視し難い問いを投げかけてくる。
何よりも恐れるべきは、その問いに対する「正解」が見つけられないことではない。答えの出ない問いに逡巡する間も与えられないまま、純粋な科学技術への信頼と憧憬に駆り立てられた技術革新の加速が、俺達の生きる世界を後戻りのできない破滅への瀬戸際にまで追い込んでしまうことだ。
世界中の賢明なる科学者はもはやその危機を十分に認識し、文理の垣根を越えた総合的な研究と知見の創出を模索しつつある。そもそも第一線の科学者の多くは「文系」教養の重要性と価値を理解しているものだ。彼らの著す本には頻繁に古典文学の一幕や古今東西の哲学者の至言が引用され、「人間」なる存在への深い興味や洞察が見られるのが常である。

そのような中で、「理系教育が大事」という主張はどうも「周回遅れ」の感が否めない。もちろん、従来の日本の教育が世界に伍する「理系」人材を十分に育成できていなかったという反省もあるのだろう。
ただ、学問の次なるフロンティアは「文系」の領域、もっと言えば従来の「理系」「文系」を融合した新たな学術体系に求められるであろうことは間違いない。なればこそ、「文系学部の削減」などと言っている場合ではないのだ。

求められるのは「役に立たない」学問を切り捨てることではない。「理系に進めなかった人の受け皿」あるいは「就職のためのパスポート」といった「文系」の位置づけを見直し、躍進目覚ましい自然科学と渡り合えるだけの学問として鍛え上げていくことであるはずだ。

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