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人類学者・長谷川眞理子先生の「!!!」——この世にバカな疑問や意味のない疑問はない

検索すれば、だいたいの問題の答えがわかる現代。私たちがそれぞれの見方で「問う」ことで、一体何が変わるのでしょう? 「三賢人の学問探究ノート」シリーズの1巻『人間を究める』に登場する人類学者・長谷川眞理子先生に、「問いを発すること」が私たちの暮らしや学びにどんな意味があるのか、聞いてみました。

長谷川眞理子先生
1952年東京都生まれ。東京大学理学部卒業。イェール大学人類学部客員准教授、早稲田大学教授などを経て、現在は総合研究大学院大学学長を務める。専門は行動生態学、自然人類学。

人間はもともと、問う生き物だ!

——長谷川先生をはじめ、「三賢人の学問探究ノート」シリーズに登場する研究者たちは、身近な疑問や気づきを出発点に、独自の研究の世界を切り開いていきます。でも、私たちって今、身のまわりのことに対していちいち「なぜ?」と問いにくくなっているような気がするんです。ふとした疑問はすぐに検索できるし、出てきた答えらしきものに満足してしまえば、それ以上問いが湧き上がってこない、というか……。

長谷川:問いを発するというのは、そもそも人間に備わっている生まれつきの性質です。生まれたばかりの頃は誰かにお世話をしてもらえばいいけれど、そのうちに自分自身で世の中を理解して、生きていかなければいけない。成長していく過程で「なぜ世界はこうなっているんだろう?」と問うのは、当然求められる対応なのですよね。みんな、子どもの頃にはあらゆるものに対して「なぜ?」って問い続けていたはずで、人間の本性としては「問わない」ことのほうが不自然だと思うんですよ。
それがいつの間にか、「なぜ?」って問い続けてもしょうがない、時間を無駄にしてしまうと言って、世の中の不思議を「そういうものだ」と受け入れてしまう。
今、当たり前だと思っているあらゆることに対して、本来は「なぜこうなっているんだろう?」と問いを抱くことができるはずです。たとえば四季があるのは当たり前だと思っている人が多いと思いますが、改めて「なぜ四季があるんだろう?」と問われたら、たしかに不思議じゃないですか。
研究者というのは、その子どものような「なぜ?」「どうして?」をずっと持ち続ける人のことを言うのだと思います。「なぜ?」と問い、返ってきた説明に納得がいかないから調べだして、自分のやりたいことや研究の道を見つけていくんです。

——確かに、誰もが子どもの頃は、自分の興味の向くままに「なぜ?」「どうして?」と問いを抱いていたはずです。長谷川先生が子どもの頃には、どんなことを不思議だと感じていましたか。

長谷川:私は幼少期から、生き物に強い関心を持っていました。なぜ春になると植物が一斉に芽吹くのか。なぜ鳥の鳴き声は一羽一羽、異なるのか。海に住む生き物、たとえばイソギンチャクやヒトデは、なぜこんなにも美しい造形をしているのか……。自分とはまったく違う生き物が生きているさまが、不思議でしょうがなかったんです。そして、季節とともに命がめぐる生き物の世界は、とてもエレガントにできているように見えた。その感覚が、世界を問うことのはじまりだったと思います。

扱えないほどの大きな問いは、考えやすい問いに分解する

——研究の世界に足を踏み入れた長谷川先生は、辺境の地で野生動物の研究をされたのち、動物ではなく『ヒト』の研究を始められるのですよね。1巻『人間を究める』に詳しく書かれていますが、動物と比較してヒトの思春期が長いことに注目され、思春期と呼ばれる時期にヒトの心や体に何が起こっているのかに疑問を抱く。その謎を解明するために、3000人もの子どもを対象にした、25年にもわたる長期の追跡調査を始めます。

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でも、たとえ「人間の思春期って不思議だな」と思ったり、人間ってどんな生き物なんだろう?と問いを抱いたりしても、どこから考え始めていいかわからなくて、問うのを断念してしまいそうです。あきらめずに問い続ける秘訣はあるでしょうか。

長谷川:大きな問いを丸ごと問うのではなく、自分が扱えるくらいの小さな問いに分解できないかな、と考えることです。私が行っている人間の思春期の調査には、生物学や心理学、医学など、さまざまな分野の研究者が参加していますが、調査を始める前に、何を明らかにすると人間の思春期という謎を解明できるか、と議論しました。体がどのように変化していくのか、ホルモン状態が変化するのはいつか、といった体の発達の問い。関心ごとや、将来についての考えがどのように変化していくか、といった心の発達の問い……。仮説を立てられるくらいの問いに分解してから、実際に調べていきます。

たとえば「なぜ人間には言語があるのだろう?」と疑問に思ったとしても、それはすぐには解き明かすことはできないでしょう。それなら「なぜ人間は口で話すのかな?」とか、問い方を少し変えてみる。そうすると、どう考えればいいかわからなかった疑問を解決する糸口が見えるかもしれません。大きな問いを問いやすい問いへと変換していく癖をつけると、考えることをあきらめる必要がなくなっていくはずです。


たとえどこかに答えがあっても、あなた自身が問うことに意味がある

——自ら問い続けることって、一見すると非効率にも見えると思うんです。「なぜ人間は口で話すのかな?」にしても、すぐに答えが出ない問いですよね。それでも自分自身の「なぜ?」を捨てずに世界を見ることには、どんな意味があると思いますか?

長谷川:疑問を持つことは、自分という人間が独立して世界と向き合うことだと思うんです。何も疑問を持たないでいると、今あるものの言いなりにならざるを得ない。自然界でも、社会でも、日本という国でも「なぜこうなってるの?」「これっておかしいよね」と思う人がいなければ、ずっと変わらない“今”を受け入れていくしかありません。言いなりにならず、何かを解き明かしたり、何かを変えたりするには、森羅万象に疑問を持つことから始まる。問うことは本来、独立した人間にとって必要な態度だと思います

——私たちは「問えない」のではなく、もともとは自然と問うことができたはずだ、というお話もありました。でも実際には「こんな問いに意味はあるのだろうか?」「こんなことを聞いたら周りからバカにされないだろうか?」と、問うことをあきらめてしまう瞬間もあると思います。それでも、そんな意味や評価からの呪縛から抜け出して、不思議だなと思うことを思い出してみよう、と思った人に対して、何かメッセージを頂けますか?

長谷川:自分が不思議なことを「なぜ?」と問う。すると他人から「そんなことも知らないの?」とか、「考えても意味がないんじゃない?」「そんなことを問うても、どうせわからないよ」なんて言葉を投げかけられるかもしれません。
でもね、この世にバカな疑問や、意味のない疑問というのはないです。
絶対に「なぜ?」と思うことには意味があるんです。たとえみんながその答えを知っていて、あなただけが知らなかったとしても、あなた自身が問うことに意味がある

だから体裁を取り繕う必要はありません。どんなことも、改めて問いかけてみると不思議だな、おかしいな、と思うことが絶対に出てくるはずです。だから「そんなつまらない問い」と言われたら、「どこがつまらないんだ」と反論して、問い続けてほしいと思います。

■あなただけの「!」を見つけるために
「この世にバカな疑問や、意味のない疑問というのはないです」。
そう長谷川先生は力強くお話されました。
私たちはときに意味や評価に縛られ「なぜ?」と問えなくなる瞬間があります。「そんなことも知らないの?」「考えても意味がないんじゃない?」「どうせわからないよ」――そんな言葉を投げかけているのは、ひょっとしたら他人ではなく、自分自身かもしれません。
 
! 考えても意味がないことをあえて考えるとしたら、あなたは何を問う?

文・構成:塚田智恵美
イラスト:はしゃ

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