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今年の父の日は父の命日と重なった。なぜ私は本を読むのだろう、なぜ文章を書くのだろう



小学生の頃、お父さんやお母さんが死ぬのが怖いと思った夜があった。

「それは明日じゃないし、少なくとも50年ぐらい先のことだから大丈夫」。

そう言い聞かせて、眠りについた。

10代のほとんどを「うちは普通の家庭だから、不幸なことは起こるわけがない」と高を括って生きていた。「普通」というのは、お金がありすぎるわけでもなさすぎるわけでもなく、それなりに仲が良く、暴力や離婚などの家庭内トラブルとも無縁で、どの数字をとってみても日本人家庭の平均値という意味で、だ。

だから当然のように、親は自分が中年になるまで生きていてくれる、という自信があった。
でも現実にはそうはいかなかった。

父は私が18歳の時に死んだ。それは父の日の翌日の出来事で、今年の父の日は父の命日と重なった。しかも、372年ぶりに夏至の日食が見られる(かもしれない)日だ。父の日と父の命日が、月と太陽が重なる新月の今日、あの日に戻って父を救えたらと願わずにはいられない。

18歳から今まで、何度かこのことを日記にしては自分の感情を整理しようとしてきた。書きながらちょっと泣いてしまうが、書けば書くほど理解が追いついていくような感覚になる。このことについて考えるのは今日で何巡目かはわからないけれど、父が死んだ当時の感情を言葉にするなら「心細い」だったように思う。

私が第一志望の大学に合格した時、合格者の受験番号がネットで発表された数十秒後に職場から興奮して電話をかけてくるような父だった。
父の手帳には私が当時愛読していた『別冊マーガレット』の発売日が几帳面に書かれていたし、安室ちゃんがテレビに出る時には、「安室ちゃん出てるから、勉強は休憩!」と、私が好きなものを絶対に否定しないような父だった(今、父に会えるとしたら「安室ちゃんが引退しちゃったよ!信じられる?」と言いたい)。面白がっていじってくる母とは正反対な生真面目さがあった。

小1の時、父と二人で遠出して、お土産コーナーで「何か欲しいものはないか」と聞かれて、内気だった私は説明をするわけでもなく「おとうさん」と書かれた手鏡を手に取った。たしかその日も父の日だった。父は、深い意味はないのかもしれないが、「わたし」と書かれた手鏡にするように諭した。自分を見失いそうな時、家族よりも他人よりも自分を大切にしないといけないと思うのは、この「わたし」の文字が胸にあるからかもしれない。

子供ながらに、父が子煩悩なことがわかっていたから、父がいなくなった世界は心細かった。信じていた普通の生活が終わってしまったと思い、すごく混乱した。

でも、ここでも現実にはそうはいかなった。母のおかげだ。母は私の普通の世界が変わることも終わることもゆるさなかった。

「お父さんの寿命だったんだから仕方ないよね!お姉ちゃんと珊瑚ちゃんがいたからお父さんは生きてこれたんだよ。珊瑚ちゃんは18年もお父さんと一緒にいられてよかったよね!」

そんなふうにしっかり者の長女らしさで、家長として普通の家庭を仕切った。私の普通は守られ、父がいなくなった世界は物理的には何も変わらなかった。母と姉と女三人、むしろ制約がなくなって、自由で楽しい。私は母の前向きな心の持ちようを尊敬していて、とても感謝している。

***

6月2日(火)、五百田達成さん主宰の「おとなの寺子屋」初の試みで、哲学対話のワークショップを行った。

みんなでおしゃべりをしながら決めたテーマは3つ。

・なぜ自分の文章はサムいのか。

・幸せな時より不幸な時のほうが面白い文章は書けるのか。

・書くことと話すことでは、どちらが思考を高めるのか。

どれも「人はなぜ書くのか」ということから派生するような問いだ。今回の哲学対話では、意見を言う時に他の人の意見に迎合する必要も批判する必要もない気楽さがある。さらには、結論もない。ワクワクとモヤモヤの中間、そんなあっという間の時を過ごした。

3つの問いの中で「幸せな時より不幸な時のほうが面白い文章は書けるのか」という問いが、個人的に刺さった。

「悩んでいる時こそ、人はクリエイティブになれる」みたいな話を聞いたことがあるし、非凡性とは、不幸な境遇など特殊な出来事の積み重ねの中で磨かれるものとも思っていた。

哲学対話の中では、

・不幸だと思っていた時は創作していたが、生活が落ち着いてきてからは創作をしなくなった。

・特殊な出来事があったからそれを書こうとエネルギーが沸いていたのに、それを失うような出来事があってから混乱してしまった。 

・不幸や怒りに任せた文章は、誹謗中傷と同じで面白くない。

さまざまな発言があった。あっという間に終了時間になって、「で?」と思っても結論はない。不思議な余韻のあるワークショップだった。

***

私はワークショップのあと、ひとり哲学対話の延長戦を行った(というか、普段から哲学対話みたいなことを脳内で延々としている)。

話を戻すと、父が死んだことは、普通を尊ぶ私としては不幸な出来事だった。母は変わらない日常を提供し続けてくれたけど、「変わらないわけがない!」と静かに怒っていた。自分の「地雷」について自覚していたから、デリカシーのない人に不意に踏まれないように、心をさらけ出すのを避けていたようにも思う。

それでもどうにかしたくて、楽になりたくて、本を読んだ。「死」とは何かについて、私にはどうしても考える必要があった。自分の心細さや後悔の念や生かされている意味について、活字で拠り所を見つける必要があった。誰と語り合うわけでもなく、たったひとりで。

そうして出合った一節がある。よしもとばななさんの小説『まぼろしハワイ』(幻冬舎)の中で、母を幼い頃に亡くした主人公のオハナが、大人になって父を突然亡くしたことをきっかけに、後妻のあざみさんと一緒にハワイを旅する。これはオハナが、乳児院に捨てられたあざみさんの経験を初めて聞くシーンだ。 

「私を生んだその人の人生のことなんか考えたくない。自分は運がよかった、愛されてた、その人といるよりもずっとよかったって思うだけ。」

「そうだよ、あざみさんはきっとそのほうがよかったんだよ。」

私は言った。

そして自殺したママがいることで少し自分を哀れんでいたことを恥じた。まるであざみさんよりも大変な人生だったと言わんばかりの顔をしながら、ずっといっしょに過ごしてきた自分を。 

この文章を読んで自分の感情に名前が付いた。ああ、そういうことだったのかと思った。
私は父を亡くしてからというもの、可哀相な自分に酔っていたし、特別な人間だとすら思っていた。でもそれは思い上がりだった。

何か不幸なことが起きた時、「みんな何かしら辛いことがあるんだから、こんなことで傷ついていたらダメだ」と自分の感情に蓋をしなくていいと思っている。気が済むまで悩んでいいし、泣いていいし、怒っていい。極論メンヘラじゃない人なんていないのだから、他人に迷惑をかけてもいい。さらに言えば、そういう人に優しくありたいとも思っている。

でも、「この感情は自分だけが感じる特別なものではない」と知ることが心にもたらす癒しとゆるしについて、私ははっきりと気づいてしまった。まるで自分のことが書かれているかのように思える文章は、真っ暗な海を照らす岬の灯台のように、一筋の光を放ち、道しるべとなり、心の戻るべき場所を教えてくれる。それが本の、文章の持つ力だと思う。

現にこの文章に出合ってから、不幸な出来事は私のすべてではなく、ひとつのパーツに過ぎないのだと捉えられるようになった。そう思ったら、生きることが楽しく、楽になっていった。

私にはこんな不幸なことがあった。 
私はこんな不遇を嘆いている。
あの人は頭がおかしい、私は怒っている。

という文章を書けば、

それは大変だったね。 
あなたは悪くないよ。
神様は乗り越えられない人に試練を与えないんだから。

などと、慰めの一言をもらえるかもしれない。でも「面白いね!」とはならない。もっと言えば、心に寄り添ってくれているように思えたその言葉たちは、カチャカチャカチャカチャ…ッターンと得意気に書き込まれているかもしれないし、わりと早い段階でスクショされているかもしれない。それぐらい他人は他人に興味がない(好奇心を除いて)。

不幸なこと、悲しかったこと、怒ったこと、嬉しかったこと、恥ずかしかったこと、その個人的な出来事について掘り下げ、疲弊するほど考えて、考えて、考えて、人の感情の本質的なところを手繰り寄せたい。

それが、私が考える面白い文章の種になると思うし、よしもとばななさんの小説のように誰かの感情の拠り所になり、生きる勇気を与える文章につながるのだと思う。

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