見出し画像

やめた。たかが習い事だけど。

紆余曲折あった娘のプールをやめた。

4歳になった娘は、保育園通園にともない、週末に鞍替えしてプールに通っていたのだが、体調を崩したり、予定が入ったりでなかなか行けず、行ける日も渋り、とうとうとうとう、やめた。

やめた。

夫は、娘が挫折感を味うことのないよう、言葉を選んだ方がいいと言ったが、私はやめることは挫折じゃなくて、選択だと言った。

げんに前の時と違い、彼女は順調に昇格してそこに関しては喜んでいたのにも関わらず、やめたいと言う姿勢は変わらなかったのだ。

2人で、やめると言いに行く。
受付の方に「うん、やめるの」という娘は堂々としていた。

受付の方はちゃんと受け止めてくれて、大きくなってまた来たくなったら待ってるね、と言ってくれた。帰ってきてもいいんだと思えるだけで、心持ちが違う。

帰り道は小雨だった。自転車の後部座席に向かって「またさ、みんなで体育館のプール行こうね」と声をかける。

かけながら、私は自分が寂しいことに気づいてしまった。
この道は、あの坂道も、もうめったに通らなくなるだろう。
ベビーだった頃に、びしょ濡れで親子が着替えるのが壮絶だったことも、
コロナ禍で少しずつ始まった幼児クラスは少人数で、親子共々仲良くなってきたことも、  
待ってる間のCOCO'Sも、
あっぷっぷ出来るようになって、お風呂も楽しくて、体育館のプールも気軽に行けるようになったことも、
全部の思い出が思い出されて寂しい。

でも、彼女が決めたから、手放す。

育児ってのは、手放していく作業なんじゃないかと、ふと思う。 

何にもできないから何でもやってあげて決めてあげていた新生児期から、少しずつ手放していく作業。食事から、排泄から、あらゆるものが、少しずつ出来るようになって離れていく。
こっちが寂しいからといつまでもしがみつけない、タイミングはいつもむこうが決めるのだ。

もちろん、習い事なんてものは、親が才能を見込んで(大概我が子は才能があると思いたがる)、
二人三脚でやっていってもいいものだ。実際、それで大成功をしている親子もあるだろう。

でも、やめた。 

どんなに嫌でも保育園というものはよほどでないかぎり、休めないし止められないのは、娘も知っているからで、

プールまで『やめるという選択ができない』という挫折感を娘に味会わせたくなかったからだ。

だから、彼女の選択を肯定しながら、こちらの思いを手放していくしかない。
成長を見守るということは、寂しくも嬉しく少しずつ手放すことと、イコールなのかもしれない。





「またさ、みんなで体育館のプール行こうね」
声をかけた私に、後ろから声がかえってきた。

「行かない。帰っておやつ食べるから」

あ、いや、今日の話じゃなくって……ややこしいこと言ってすまんよ、ま悪かったよ…… 

娘は清々しいほど『今』を生きている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?