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雲南日本商工会通信2023年11月号「副会長の挨拶」

 ご存じの通り、ロシアとウクライナの戦争に続いて、イスラエルとパレスチナも戦争状態になってしまいました。情報化が進んだ21世紀においても人間は戦争するのですねえ。
 私は若い頃にイスラエルのキブツで半年ほどボランティア農業をしていたので、何となくイスラエルの気質はわかるような気がしています(今回ハマスの捕虜になったタイ人と同じような作業環境でしょう)。
 私がいたのは、イラクから毒ガスミサイルが飛んでくるのではないかと言われていた1990年頃です。
 キブツ内では避難訓練などあり、警報サイレンと警報解除サイレンの識別、窓への目張りテープの張り方、外に犬を放しその犬の状態から毒ガスの有無を判断するなどの指導があったのを、懐かしく思い出します。
 街のいたるところに自動小銃を肩に掛けた軍人がいますし、テルアビブなどでは散発的な爆発なども珍しくありませんでした。男女ともに18歳から徴兵制があり国民はみんな戦闘員として訓練も受けています。
 イスラエル自体が、周囲のイスラム教の国々の敵視の中で無理やり建国したわけですから、周囲はみんな敵国で地続きです。歴史的にも国を失い、再度迫害の民になるわけにはいかないわけですから、日頃の緊張感、歴史観、民族観、危機感は、平和な島国・日本の自分などとは比べものにならないなあ、と思ったものです。
 北朝鮮からミサイル威嚇があるとか、日中関係が悪いとかというレベルの危機感とは、全く違うレベルの緊張感でした。
 
 もちろん現在のガザの市民の死傷者、特に子供の死傷者には全く罪はありません。その一方で、イスラエルは自国攻撃への報復に対し、いかなる妥協も容認できないという深く長い背景も推測はできます。
 個人でも夫婦でも国家でも、ケンカする場合は、お互いはお互いの論理で「自分は正しい」「相手は間違っている」と思っているからケンカになるわけで、それぞれにはそれぞれの正義はあります。
 民主国家は一応裁判所があり、そこで相互の主張の正義を判断してもらうことで納得する取り決めです。しかし、それも時代によって正義は変化しますし、独裁国家や宗教国家では裁判自体の正義が他国とは異なり、恣意的に歪んでいます。また、それが国家間の正義論争になれば、意見が割れて、国連は何も決断できない、決定できないということになっていて、機能麻痺になっています。
 
 もともと人間は、単細胞生物が何十億年もかけて、試行錯誤、自然淘汰、性淘汰しながら、少しずつ進化してきたわけですから、基本的には今も野生動物と五十歩百歩なわけで、正しい平和的、合理的な決断を期待する方が無理なのかもしれないと思ってしまいます。
 私たちが現代を生き残っているという事実は、「生存」と「繁殖」に極めて適したDNAを持っているという証明であるのは間違いありません。もし、他者をすごく優先する自己犠牲の個体がいたなら、それは生存競争、生殖競争にやぶれて、絶滅して遺伝子を乗せなかったわけでしょう。
 我々の先祖は自分の「生存」のために、餓死した他者よりも、より利己的に食物を獲得してきたわけで、有利な土地や狩り場を占有し、弱者を追い出す能力に秀でた資質を私たちは受け継いでいます。体質的にはより脂肪を蓄える能力に秀で、飢餓に備える利点から太りやすいほど生存には有利だったと想像できます。
 「繁殖」のためには、男はできるだけ多くの精子をばら撒く機会を得るよう進化し、女はできるだけ力のある雄の遺伝子を獲得するように進化した個体だけが生き残ってきたわけで、好色で狡いというのが、本質といえば本質かもしれません。
 
 こうしてみると、生物である限りにおいて「生存」と「繁殖」に有利になるという競争から離脱することはできないわけで、どんな正義も畢竟は、それぞれの「生存競争」「繁殖競争」のぶつかり合いなのかもしれません。
 
 そこでAIの登場です。将棋や囲碁だけでなく、間もなく総合的にみても人間の知能を超えるAIは出現するでしょう。シンギュラリティー、すなわち生物の歴史で初めて、機械の知能が生物の知能を超える特異点がやって来ます(機械の力が生物の力を超える特異点は、産業革命で実証済みです)。
 今後、人間は多くの正義的判断を、AIに委ねてしまう方がいいのかもしれません。肥満や糖尿病になるのはわかっていても、甘いものや糖質がやめられないのは、戦争で人が死ぬのがわかっていても、侵略がやめられないのと、基本的には同じ構図なのかもしれません。
 AIに食事を指定してもらった方が、健康にはなるのでしょう。それでも美味しいという感情を優先させたいというのは、侵略し、略奪したい、不倫したい、という感情と大差はないのかもしれません。
 
 Passionというのは「情熱」ですが、Passiveというのは「受動的」。
 情熱というのは、現代において肯定的な概念で人間らしい人を感動させる要素ですが、その同じ語源のPassiveが受動的、受動態の意味であるのは、どこか示唆的です。Passionが少し方向を変えると、戦争や略奪や不倫や殺傷を生むわけで、本能に従った受動にもなり得るという状態なのかもしれません。 
 政治も裁判もつまらない政治家や、社会性のない裁判官に任せるよりも、いっそAIに任せた方が平和にはなり、正義は実現できるのでしょうけど、本能を捨てるとPassionも捨てることになるので、みんな引き籠もりになってしまって、生きている意味も感じなくなるという意味では人間は幸福感も無くなるのでしょうか。
 
 やれやれ人間は自己矛盾を孕んだ厄介な生物だなあ、ということで、人間はどこに行くのでしょうか?

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