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椎名林檎 『加爾基 精液 栗ノ花』

『加爾基 精液 栗ノ花』という椎名林檎のアルバムがある。いわゆる「カルキ」である。このアルバムは私にとって不気味であるとともに離れられない魅力がある、この文章ではこのアルバムの魅力を言語化を試みる。椎名林檎については、以前もすこし文章を書いている

『加爾基 精液 栗ノ花』

「カルキ」は椎名林檎の3枚目のスタジオアルバムである。1,2枚目は割とバンドサウンドメインの楽曲が多かったが、このアルバムは管弦楽器や雅楽器、生活音のサンンプリングが使用されている。それに加えて生臭いタイトルやシックなジャケ画、タイトルや歌詞の大仰さも相まって、それ以前の、そしてその後の椎名林檎の作品と比べても異色な雰囲気が漂う。

高校生の頃の私は、なぜかこのアルバムが好きだった。一番よく聞いた椎名林檎/東京事変のアルバムは「アダルト」だが、「カルキ」は憂鬱な気分の時に聴きたくなるのだ。正体不明のメランコリーに苛まれている時に聞くと妙にハマり、通しで聴いたあとには浮遊感が残る。

六曲目に「茎」という曲がある。メロディとサビだけのシンプルな構成だがメロディで不穏さを徐々に高め、それが頂点に達した後にサビに至り、波が引くように開放されてゆく過程が耳に心地よい。歌詞もそれに対応するように、メロディは暗く厭世的で、サビでは翻って悟りを開いたような内容だ。以下一部引用する。

(メロディ)
此の扉(ドア)なら破れない
其の塔なら崩れない
彼(あ)の天なら潰れない
何(ど)れも嘘らしく馨つてゐます 

(サビ)
喩へ蒔いても育つても仙人草(クレマチス) 咲いても強く色付かうとも
瞬時に黙つて堕ちて逝きます 如何して? 何故 哀しくなつたの現実の夢

​椎名林檎、「茎」、2003

ダウナー系アルバムとしての「カルキ」

「カルキ」は椎名林檎/東京事変のディスコグラフィの中でもっとも「暗い」アルバムであることは同意してくれる人が多いだろう。しかし、一言に暗いといってもいろいろな種類がある。例えば「暗い曲」職人の中島みゆきの「生きていてもいいですか」「愛していると云ってくれ 」などがダウナー系アルバムとして名高い、よく椎名林檎と対比的に扱われる宇多田ヒカルの場合「ULTRA BLUE」だろうか(個人的にどれも大好きな作品だ)。

中島みゆきや宇多田ヒカルの「暗さ」は基本的に叙情的なものである。中島みゆきはの場合、その陰鬱さは演歌的な「女の情念」をより深く、繊細に追求したものである。「怜子」「化粧」などの名曲はこのタイプの典型例だろう。宇多田ヒカルについては一言で語ることは難しいが、そのダウナー性はより内省的かつストレートなものが多い。先に挙げた「ULTRA BLUE」の中核をなす曲「BLUE」の歌詞などはその典型例だろう。

どんなに長いよる夜でさえ
明けるはずだよね?
もう何年前の話だい?
囚われたままだね Darling, darling, ah
全然何も聞こえない
琥珀色の波に船が浮かぶ
幻想なんて抱かない
霞んで見えない絵

宇多田ヒカル、「BLUE」、2006

中島みゆき、宇多田ヒカルの叙情的な「暗さ」と比較すると椎名林檎の暗さはパッチワーク的である。言い換えると、遠目で見て初めてその全体像がわかるパッチワークのように、一文一文には直接的な暗いワードはそこまで多くはないのだが、歌詞、曲を構成する音、アルバムのジャケットまでをひっくるめたアルバム全体でみて初めて、その暗さを実感するのである。

これは「カルキ」だけではなくて彼女のアルバムに共通する特徴であると言えるだろう。カルキ以後の作品はコンセプトアルバム的な側面があるが、そのテーマは歌詞やタイトルといったミクロレベルでは直接観察することはできないが、アルバム全体としてそのコンセプトを体現している。

西加奈子との対談で椎名林檎は以下のように述べている。

音楽には歌詞カードがついてるんですが、インタビューでは歌詞についてしか聞かれないことがあります、「この曲、イントロでこのトーンでが入ってきますね」みたいな話ではなく、どうしても「なぜこういう歌詞を書いたんですか?」というような文字だけの話になっちゃうことが多いんです。

椎名林檎にとって歌詞やメロディ、映像あくまでパーツに過ぎず、相互が有機的に組み合わさって初めて意味をなすものなのだ。

饐えた生活と死

話を「カルキ」に戻そう。他のアーティストと比較するために「暗さ」という抽象的なワードを使ったが。このアルバムから強く伝わってくるのは「饐えた生活感と死」あるいは「生きて死ぬことの生臭さ」である。

一曲目の「宗教」と最後の二曲の「葬列」「映日紅の花」は静謐な雰囲気と重くおどろおどろしいメロディから生と死を連想させる。一方で中に挟まる曲、例えば「やっつけ仕事」「取り越し苦労」「ポルターガイスト」などからは生活の倦怠感や流れる時間のどうしようもない軽さ、とそれに対する諦めなど感じられる。

そしてなによりこのような曲が「加爾基 精液 栗ノ花」という生臭いタイトルのアルバムに収録され、黒の背景に白の陶器という、葬式の骨壺を連想させるジャケットをに包まれている。これがこのアルバムの総体として唯一無二「ダウナー性」を放つものに仕上げている。

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椎名林檎、『加爾基 精液 栗ノ花』、東芝EMI、2003

終わりに

冒頭に私は「正体不明のメランコリーに苛まれている時」にこのアルバムを聴きたくなると書いた。つらつらとこの作品を分析してみたが、もうしかしたらこのアルバムが放つ「饐えた生活感と死」が人が根源的に持つ不安感と共鳴していることこそが、その理由なのかもしれない。


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