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映画館でナウシカを見てきた話

コロナ禍の影響で新作の上映が事実上停止している状態なので、劇場では今旧作を繰り返し上映している。その中で人気を集めているのが『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』などのジブリ作品だ。私も気になって近くの映画館の上映スケジュールを調べてみるとちょうど『風の谷ナウシカ』をやっていたので見に行った。真剣に見たのはもう十数年ぶりで、この情勢下でみると色々思うことがあった。

コロナ禍中に観るナウシカ

もう何度も見たはずなのだが、新型ウイルスが世界を席巻し、生活から仕事まで一変してしまった情勢下で見ると感じ方がまるで変わる。風の谷ではマスクをつけなくて済むのはいいなあ、とか、腐海を抜けてきたユパが手も洗わず着替えもしていないのに皆にもみくちゃにするのは無用心すぎないか、とかいろいろ考える。ナウシカという、評価が固まり切ってあずきバー並の硬度になった作品でも見る時代によって観賞ポイントが変わるのだから面白い、改めて芸術の多面性というか可塑性を思い知った。

そんな中、最も気になったのが、ナウシカの映画において根本的な問題は何も解決していないという点である。確かに巨大ダンゴムシの暴走で谷が踏み潰されるという喫緊の破局はナウシカによって回避されたものの、腐海は拡大を続けるだろうし、それによる病で人口はどんどん減ってゆくだろう。作中世界において人類は遠からず滅びる運命ある。

おそらく、それでも良い、それが生きるということだ、と言うのが宮崎の回答なのだろう。栄枯盛衰、種の寿命はこの地球のサイクルに組み込まれた運命であり、それをテクノロジーによって回避するのは傲慢である、と宮崎は言っているのだ。映画版の公開からはるか後になって完結した漫画版では物語はより複雑な行程と結論を見せるが、ここではそこまで踏み込まない。

しかし、コロナ禍の中でこれを見ると、こうした宮崎の結論は日本の平均年齢が35才前後であり、空前絶後のバブル景気が始まった1986年という時代背景でこそ成立し得たものではないかと考えてしまう。社会が醜く老いてゆき、コロナウイルスにも十分に対処できていない2020年の7月にこの作品を見ると、その結論は大富豪の格差批判のようなものに聞こえ、ある種のルサンチマンを抱いてしまう自分がいる。

ナウシカのキャラクター性

宮崎は各所でフェミニストのような持ち上げられ方をすることが多い。実際その作品の多くは女性を主人公にしており、時代背景を考えればそう言った評価はあながち間違いではない。

しかし、映画版のナウシカというのは現代の女性をめぐる視点から見るとあまり興味深いキャラクターではないかもしれない。彼女は作中一貫して腐海と人間社会を繋ぐ仲介者としての役割を果たすが、その一種超常的な立ち位置は彼女の「母性」という保守的なジェンダーロールによって成立している節がある。この意味で彼女の存在は「巫女」の一言で説明可能であり、そのキャラクター性には極めて伝統的なものだ。「もののけ姫」で同じ役割を負わされているアシタカが、その断固たる意志、あるいは腕っ節の強さでその役目を全うしている点と対比させるとわかりやすい。

その意味でむしろ興味深いのはクシャナである。彼女は政治や軍隊といういわゆる「男性世界」の指導者を務める女性である。しかも、その地位に疑義を挟むものはトルメキア軍中に誰一人いない。あの老獪な策士であるクロトワでさえも、クシャナが腐海から生還したと知った際にはすぐに自分の野心を引っ込めて彼女の忠実な部下として付き従うのだ。宮崎がフェミニストであるならば、その素養はクシャナの中に見るべきだろう。

やはり時代を超える大傑作

批判的なことばかり述べてきたが、この作品が時代を超える大傑作であることを疑う余地はない。特に飛行シーンについてはこれを超える映画はないのではないかと思うほどの出来である。直線的でシャープな動きをするガンシップや、巨大戦艦らしく重々しく飛ぶコルベット、そしてトンビのように風に乗るメーヴェなど、機体のそれぞれの特徴がその飛行シーンで十二分に表現されている。宮崎映画独特の雲の質量感やスケール感は言うまでもなく、私は観賞中終始鳥肌が立っていた。

これが1986年に作られたという事実は、この作品の特異性を示すとともに人類は進歩しているようでしていないのではないかという無力感がこみ上げてくる。ストーリーにしても、もののけ以後の宮崎作品と比較すると、明確に起承転結が構成されており、クライマックスへの盛り上がりがスムーズであると感じた。

次にこの名作を劇場で見られるのはいつになるだろう。ソーシャルディスタンスを守った上で、是非とも劇場に足を運んで欲しい。漫画もおすすめ。


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