見出し画像

樋口一葉『十三夜』を読む

樋口一葉というのは、現代においてはどちらかというと偉人、歴史上の人物として扱われており、同時代の作家、例えば夏目漱石や正岡子規のような文豪と比べて、あまり読む対象として選ばれていないような感覚がある。

私も恥ずかしながら通しで読んだことがなかったが、旅行中の暇つぶしで買ったロバート・キャンベル編『東京百年物語』の中に「十三夜」が収録されていたのを読んで、衝撃を受けた。文章のリズム、一晩の出来事を語る短い作品ながら、幾人もの登場人物の人生を描き、生きてゆくことのどうしようもなさを浮き彫りにするスケール感は現代の作品含めても今まで感じたことのないものだった。

文章のリズム

樋口一葉の文体は雅文体や擬古文とよばれているものだ。彼女は高明な作家の中でこの文体を扱った最後の世代だと考えられている。口語文に慣れている私たちにとってかなり面食らうが、怖気付かずに最初の2,3行を読むと、驚くほど素直に読み下せることに気がつくだろう。

外なるはおほゝと笑ふて、お父樣とつさん私で御座んすといかにも可愛き聲、や、誰れだ、誰れであつたと障子を引明けて、ほうお關か、何だな其樣な處に立つて居て、何うして又此おそくに出かけて來た、車もなし、女中も連れずか、やれ/\ま早く中へ這入れ、さあ這入れ、何うも不意に驚かされたやうでまご/\するわな、格子は閉めずとも宜い、私わしが閉める、兎も角も奧が好い、ずつとお月樣のさす方へ、さ、蒲團へ乘れ、蒲團へ、何うも疊が汚ないので大屋に言つては置いたが職人の都合があると言ふてな、遠慮も何も入らない着物がたまらぬから夫れを敷ひて呉れ、やれ/\何うして此遲くに出て來たお宅では皆お變りもなしかと例いつに替らずもてはやさるれば、針の席にのる樣にて奧さま扱かひ情なくじつと涕を呑込んで、はい誰れも時候の障りも御座りませぬ、私は申譯のない御無沙汰して居りましたが貴君もお母樣も御機嫌よくいらつしやりますかと問へば、いや最う私は嚏一つせぬ位、お袋は時たま例の血の道と言ふ奴を始めるがの、夫れも蒲團かぶつて半日も居ればけろ/\とする病だから子細はなしさと元氣よく呵々から/\と笑ふに、亥之さんが見えませぬが今晩は何處へか參りましたか、彼の子も替らず勉強で御座んすかと問へば、母親はほた/\として茶を進めながら、亥之は今しがた夜學に出て行ました、あれもお前お蔭さまで此間は昇給させて頂いたし、課長樣が可愛がつて下さるので何れ位心丈夫であらう、是れと言ふも矢張原田さんの縁引が有るからだとて宅では毎日いひ暮して居ます、お前に如才は有るまいけれど此後とも原田さんの御機嫌の好いやうに、亥之は彼の通り口の重い質だし何れお目に懸つてもあつけない御挨拶よりほか出來まいと思はれるから、何分ともお前が中に立つて私どもの心が通じるやう、亥之が行末をもお頼み申て置てお呉れ、ほんに替り目で陽氣が惡いけれど太郎さんは何時も惡戲をして居ますか、何故に今夜は連れてお出ない、お祖父さんも戀しがつてお出なされた物をと言はれて、又今更にうら悲しく、連れて來やうと思ひましたけれど彼の子は宵まどひで最う疾うに寐ましたから其まゝ置いて參りました、本當に惡戲ばかりつのりまして聞わけとては少しもなく、外へ出れば跡を追ひまするし、家内うちに居れば私の傍ばつかり覘ふて、ほんに/\手が懸つて成ませぬ、何故彼樣で御座りませうと言ひかけて思ひ出しの涙むねの中に漲るやうに、思ひ切つて置いては來たれど今頃は目を覺して母さん母さんと婢女どもを迷惑がらせ、煎餅おせんやおこしのたらしも利かで、皆々手を引いて鬼に喰はすと威おどかしてゞも居やう、あゝ可愛さうな事をと聲たてゝも泣きたきを、さしも兩親の機嫌よげなるに言ひ出かねて、烟にまぎらす烟草二三服、空咳こん/\として涙を襦袢の袖にかくしぬ。
樋口一葉、『十三夜』、1895年、青空文庫、https://www.aozora.gr.jp/

これで一文である。比較的文を短く切る鴎外などと比較すると、その長さが際立つ。しかし、会話分と心情描写が極めて明快で、娘の里帰りに喜ぶ両親という情景がくっきりと浮かぶようなリアリティさを備えているため、見た目ほど読みにくさはない。

ストーリーテリングのミニマリズム

十三夜のあらすじを簡略化して説明すると、良家に嫁いだ主人公が夫の虐待に耐えかねて実家に帰るも、両親に諭されて泣く泣く嫁ぎ先に帰る前半、かつて主人公と相思相愛であり、主人公の結婚にショックを受けて自暴自棄にになった旧知の男と出会う、という後半部に分かれる。

この短編は1万2千字程度のものだが、ストーリーテリングのミニマルさは驚くべきものがある。具体的に説明すると、このストーリーを描くのに必要なのは以下の4つの要素である。

1. 主人公の現在の境遇
2. 両親との会話
3. 主人公の過去の記憶
4. 緑之助との会話

このうち、1, 3はいわば設定の説明部分であり、それ自体は重要でないが、作品の核である2, 4の背景を読者に理解させるために必要な要素である。普通の作家であれば、これを上から順番に、あるいは1, 3, 2, 4という形で展開させてゆくはずだ。

しかし樋口一葉が巧みなのは、この四要素を2, 4のみ、すなわち会話と心情描写だけで成立させている点である。このような手法をとる場合、どうしても会話が説明臭くなったり、心情描写としても不自然なものになってしまうが、そこを筆力でねじ伏せているのが樋口一葉という作家の力なのだろう。上に挙げた文章も父親の自然な会話の中に、原田家に依存する主人公の弟たち、という設定が読者の頭の中にするりと入り込んでくる。

生きてゆくことのどうしようもなさ

この作品の解題としては「封建的な家制度に引き裂かれる」女性というロバート・キャンベルの一文が適当であろうが、令和の時代に読んでも面白いのは、それ以上に普遍性があるからだろう。人生いろいろ思い通りならない事情を皆抱えており、その中で必死に生きているのだ。家制度がほぼ廃れた現代東京でも、生きてゆくことのどうしようもなさは変わらない。

追記
Twitterで呟いたところ、ロバート・キャンベルさんから反応をいただきました。

ありがとうございます!『東京百年物語』おすすめです。


この記事が参加している募集

ジュース奢ってください!