マルクスの『資本論』について



カール・マルクス(1818~1883)の人生はこちら


資本論』1巻1867、2巻1885、3巻1894

一巻はカール・マルクス、二巻と三巻はフリードリッヒ・エンゲルスが書いた。

マルクスは初期の社会主義思想(バブーフ、サン・シモン、ロバート・オーウェンなど)を、社会変革を伴ずにユートピアは達成されると考える脆弱な理論に基づく「空想的社会主義」と呼んで批判し、自らの理論を「科学的社会主義」と呼んで区別した。

資本論は、アダム・スミス(1723-1790、イギリス)が『国富論』(1776)で提唱した古典派経済学の一つ、つまり「(神の)見えざる手」に任せれば自然的に経済は調整されるという自由放任主義レッセフェール)を批判した。資本主義は放置すればいずれ崩壊する運命にあるシステムであると。

マルクス主義は「唯物史観」が前提にある。唯物史観とは、社会は生産や消費などの物質的なもので決定されるという考え方。つまり、政治や文化などの精神的な活動は経済によって決定されると。

政治や文化に相当する部分は「上部構造」、経済の部分は「下部構造」と言う。だから、下部構造が変化することによって上部構造は変化する。

経済の発展は以下のように発展する。
原始共産制古代奴隷制封建社会資本主義社会共産主義社会

さらに、どの時代の経済の生産関係にも、上部構造と下部構造の「階級闘争」が存在する。

原始共産制(平等な社会)
古代奴隷制(奴隷 vs 奴隷主)
封建社会(農奴 vs 農奴主)
資本主義社会(労働者 vs 資本家)
共産主義社会(平等な社会)

では、資本主義社会の階級闘争はどのような構造で、どのように終わりを告げる運命にあるのだろうか。

マルクスは「労働価値説」を前提としている。すなわち、商品の価値はその商品を生産するために使用された労働量によって決まるという考え方。

商品の価値=商品を生産するのに使用された労働量

さて、商品の価値は二種類ある。「使用価値」と「交換価値」である。

使用価値とは、商品の有用性である。例えば、衣服は着ることで身体を保護することができる。

交換価値とは、商品を交換する(売買する)時の価値である。異なる商品の価値の均等を図る時、商品の価値はその商品を生産するために使用した労働量によって測られるのである。例えば、衣服と食器を物々交換する時、それを作る労働量が同じならば等価交換となる。

労働量が商品の価値となるのであれば、人間(労働者)は商品価値に換算することができることになる。そして、それは貨幣という媒介物によって数字で表示できる。

衣服=2000円=労働者の労働量

こうして、社会のあらゆるモノは商品化され、資本主義経済においては、資本家の台頭によって、ついに人間である労働者も商品化してしまう。労働者が商品化してしまう事態を「人間疎外」と呼ぶ。人間が作り出した物が逆に人間自身を支配してしまうのである。

資本主義社会のシステムでは、資本家ブルジョアジー)が労働者プロレタリアート)を商品として雇用することで、商品を生産する。

労働者は自分の労働力をサービスとして資本家に提供する。資本家は生産手段である工場や材料を所有しており、生産された商品は資本家の所有物となる。労働者は資本家から賃金を受け取ることで生計を立てる。

資本家はどのようにして利潤を得るのだろうか。それは「剰余価値」を生み出すことによる。労働量=商品の価値=賃金なのだから、資本家は労働者から労働量あるいは賃金を搾取することでしか利潤を得られない。したがって、資本家はあらゆる手段を用いて労働者から搾取しようと動く。資本家の目的は剰余価値の最大化にあると言える。

剰余価値には二種類ある。「絶対的剰余価値」と「相対的剰余価値」である。

絶対的剰余価値では、同一賃金で労働者を長時間働かせてサービス残業をさせたり、休日を少なくしたり、高速で働かせることで獲得できる。しかし、人間の体力には限界があるので、絶対的剰余価値の効率化には限界がある。

相対的剰余価値では、同一労働量で商品の生産性を向上させることで獲得できる。機械を導入するなどして、短時間で商品を効率的に大量生産すれば労働量を上げずに利潤を拡大できる。

しかし、大量生産すれば商品の価値も下がってしまうのではないのか。ところが、商品価値が下がれば生活費(物価)も下がるため、賃金は労働者が最低限の生活ができる分(再生産費)だけ与えれば良いから、実際は賃金を安く抑えることができる。そのため、労働量を上げずに且つ賃金も安く抑えることができるので、資本家は利潤を大きく拡大できる。

しかし、機械技術の発達に伴って生産性が向上すると、必要な労働者の数は少なくて済むので失業者が増えることになる。さらに大企業が市場を独占するようになる。こうして、一部の資本家の富は増長しつづける一方、労働者の富は一向に増えず、富の格差が拡大しつづけるのである。

こうした状態がつづけば、いずれ格差の拡大が極限状態へと膨張し、労働者のフラストレーションは爆発するとマルクスは予測した。労働者は結束してストライキを行使し、暴力的な革命を起こして資本家を倒すのだと。労働者に勝算があると言えるのは、労働者は人口において資本家に勝っているからである。ごく一部の資本家に富は集中するので、大衆が押し寄せれば、いくら資本家といえども太刀打ちすることができず、革命に敗れるのである。

こうして、資本主義社会は滅亡する運命にある。そして、革命の後は私有財産を禁じた共産主義社会が訪れ、平等なユートピア社会が到来する。



※終わりに
マルクス主義は実際にはどうなったか。資本主義社会は崩壊せず、社会主義を導入した社会(ソ連や中国など)の方が衰退した。とはいえ、マルクスは労働者が自ら立ち上がる革命を予期したのであって、現実化した社会主義は厳密なマルクス主義とは到達言えない。

また、資本主義は確かに加速的に格差を拡大させたが、同時に多大な恩恵も与えつつ、修正資本主義の名の下に改良も重ねられてきた。例えば、資本家が労働者を過酷に扱わないように労働基準法が定められたり、一つの大企業が市場を独占しないように独占禁止法が定められたり、労働者が団結して企業と交渉できるように労働組合が作られたり、最低限の生活を保障する失業手当生活保護なども定められた。適度に生活を楽んでストレス発散できるように、あらゆる娯楽や嗜好品も用意されている。他にも、富の再分配システムの導入や、ベーシックインカムの導入、資本家に対するさらなる課税、環境保護対策(SDGsグリーンニューディール)、民衆の暴動を鎮圧するためのテロ対策法などの政策も呼びかけられている。

このように、資本家階級は資本主義社会を可能な限り引き伸ばし、労働者階級の暴動(革命)を引き起こさないために様々な予防措置を設けて歯止めをかけている。それでも格差の拡大は一向に続いているままで、特にグローバルサウスにおける格差の拡大は問題である。果たしてこのような諸問題に有効な修正はどこまで可能だろうか。それとも、加速主義的に資本主義社会変革の時を早める方がいいのだろうか。あるいは新反動主義超管理社会といった新たな全体主義的な社会が到来するのか。やがては労働者が目覚めて自ら立ち上がる時が来るかも知れないし、来ないかも知れない。

マルクスの『資本論』が鳴らした警鐘は今でも私たちにとって現実感を持って鳴り響いているのではないだろうか。


個人的なマルクス主義に関する考察についてはこちら


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