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キリスト教的実在論(中東と東アジアの呼応)

※中東と東アジアの宗教対立はいかにして和合されるのか。ここに最近の研究の成果を書き留める。引き続き精進する。勿論あらゆる神学は解釈に過ぎない(神聖なる啓示ではない)と明記しておく。

救済論
実在者(全)が観照したものが個々の現象(個)。
個々の現象は実在の一部(実在者の子)である。
かつ個々の現象には実在者(全)がフラクタルに内包されている。
よって実在者(全)と個々の現象(個)は本来的に一体である。
実在者を認識することができる個々の(物理)現象は知的生命体(人間)のみである。
それ故に、実在者(神)と、知的生命体(神の像)は一体であり、考える葦である故に微細な知的生命体は、物質宇宙よりも偉大である。
したがって、知的生命体のみが実在者を否定する倫理的自由性(形而上学的意味論における相対的自由性)を持つ。
しかし、個々の知的生命体が実在者を否定し、現象界に固執することで、全と個の本来的一体性(全体性)が欠如し、万物の調和が崩壊する。これが罪である。
この調和を回復するには、実在者から注がれる無限の恩寵を知的生命体が受け入れる(信ずる)ことが必要である。
この回復の実現は実在者の恩寵によるのであり、知的生命体の業(行為)によるのではない。
これにより、実在者(全:神)と知的生命体(個:神の像)の本来的一体性は回復する。

空論(神論)
知的生命体による言語化は概念を区切る。しかし実在者は連続的全体性である。概念も実在の一部であり、かつ個々の概念の中にもフラクタルな全体性が内在する。よって、精密にはいかなる言語化によっても全体性(総合的宇宙論)を表現できない。精密な言語化は無だとしても、そういった全体性そのものは非言語的に有である。したがって、有でも無でもない空となる。空とは一切の言語的概念化を排除した時の純粋経験(体験)のことである。
空論は無神論でも相対主義でも不可知論でもない(※注)。それは言語や概念を停止した非言語的、非概念的な純粋経験(体験)のことである。しかし、それは存在的絶対性を否定するものではない。なぜなら、空が単なる相対主義的無であるならば、一切は無意味となるのだから、慈悲なる大乗的な目的論は存在し得ないはずである。空は無我の法であり慈悲(アガペーなる愛)なのである。
否定神学の先に肯定神学に飛び込む勇気が必要である。それが彼岸であり、実在者への信である。否定神学の最終地点は死である。死を越えた先にあるのは彼岸である。彼岸は肯定神学である。否定神学から肯定神学に跳躍するには死の洗礼を受けなければならない。自我の消失、理性の譲渡。死と再生(復活)なくして信の境地には至れない。

キリスト論
キリストは実在の一部としての現象(人間=神の子)として来たのに、同時にキリストが実在者(神)でもある。通常の思考ではこれは不可能である。しかし、これが可能なのは、現象(個)は実在(全)の一部であると同時に、現象(個)の中にフラクタルに実在(全)が内包されているからである。キリストは全と個の本来的一体性を人々に示すために言なる神として慈悲なる目的論によって世(現象界)に来たのである。
イエスは四十日四十夜荒野で断食の修行をしたが、これも禅と類似性がある。イエスは宣教の初めに荒野で身体的極限状態になった上で悪魔の誘惑を受け、これを受け流された。イエスが全天に証せねばならなかった最初の試練は身体的苦痛の極限においても父との一体性と人々への慈悲を離れないかであった。これをクリアし、天使らはイエスに仕えるようになった。次いでその後、より苦しい宣教における精神的苦痛という試練を三年半に渡って受ける。そして最後に、十字架の上で父にも見捨てられるという霊的苦痛という試練を味わいつつも、イエスは父と人々を愛しつづけた。こうしてイエスのアガペーなる愛(慈悲)の純粋さは全天に証され、彼は人類を救世する真のメシア(王)となり、復活したのである。

三位一体論
父と子と聖霊という概念を精密に分割することはできない。かといってそれらが一つであることを精密に理論化することもできない。この両方の不可能性を空と呼ぶ。しかし、全体的一体性としての非言語的存在は絶対的なのである。非言語的体験・言語的概念のどちらから考察しようとも、有は絶対的概念、無は相対的概念だからである。したがって、空論と三位一体論は呼応する。

異端論(神秘主義思想)
ユダヤ・キリスト教は東洋の一神教である。キリスト教は西洋の宗教と思われがちだが、本来東洋の宗教であり、中東と東アジアは近親である。また一神教は本来的に全世界を包含する。よって、ユダヤ・キリスト教は各時代ごとに、全世界に部分として分裂し散逸した真理の断片を、その誤謬を浄化して再吸収する仕方で人類に真理を投じてきた啓示宗教である。エジプト、カナン、バビロニア、ペルシア、ギリシアに対してそうしてきたように、東アジアの宗教も例外ではない。よって、他宗教を単なる敵と見なすのではなく、聖書の啓示がそれら散逸した真理の断片をいかにして再吸収しているかを洞察すべきである。これをキリスト教的包摂主義と呼ぶ。これは無基準なシンクレティズム(混淆主義)とは異なる。
神智学は西方のグノーシス、中東のカバラ、東方のウパニシャッドが西洋的アレンジによって統合的に理解されたスピリチュアルである。その共通する特徴は、人間側の瞑想的努力によって神との合一を果たせるとする神秘主義思想である。しかし、これは道理から外れており、真理の断片の誤謬的部分である。
原因→結果という流れを、結果→原因と逆流して本質を導く手法がグノーシス的神秘主義思想だが、実のところ仏教も自然科学もこの原理は同じである。よって逆流の論理の手法自体を全否定する訳にはいかない。しかし、相関主義的な逆流の論理の手法では、真空エネルギーまで、また本質(形而上学的意味)において無知だと悟るのが限界である。無分別智の先に彼岸なる信がある。
実在者との合一性の回復は、実在者からの啓示(言)、恩寵により可能となるのであり、神人合一の象徴であるキリスト(言なる神)への信を通してのみ実現する。
現象は実在の一部であり、現象にも実在の全体性が内包する。ゆえに現象(コスモスやキリスト)の顕現は、グノーシス的仮現論、善悪二元論ではあり得ない。

善悪論
人の悪は無明が生み出す。人は無明により善を悪とし、悪を善となす。人の善も無明が生み出す時、偽善となる。
だが無明を滅し、キリストの知識を得て、無分別智の先にある超越者(実在者)の恩寵への信に至るならば、大いなる慈悲があるのみ。実在者のみが慈悲なる方。
よって、信は真の善(慈悲)を生み、不信は悪と偽善(人間の正義)を生む。だが、悪と偽善は無明の生み出す虚妄なのである。人は言なる神(神とその啓示)への信なしに真の善悪を知ることはできない。

「無記」をキリスト教的に置換するならば。神学的な形而上学的論争と分裂を避けること。神学は所詮解釈であり啓示ではない。無常・無我なる現象界に属する自説やドグマへの信(固執)ではなく、無分別智が暗示する実在者とその啓示への信(信頼)である。魔術・占いなどを避け、理性に即して歩むこと。

「中道」の思想は旧約にも新約にもある。聖書は苦行(律法主義)も放逸(快楽主義)も批判する。

輪廻転生(天国と地獄)
輪廻転生は、宿命論的なカースト制度と密接不可分な為、バラモン教的にそのまま受容するわけにはいかない。しかし、神への不信が続く限り、永久に神との断絶状態が続き、毎瞬ごとに生成消滅する意識が永劫回帰(差異と反復)の中で苦痛(地獄)として繰り返され続ける、と再解釈できる。

不信ならば現象界は地獄と化すし、信ならば現象界は神の国(天国)と化す。だが現象界は地獄と天国が棲み分けられずに共存する故に、忍耐を要する過ぎ去るべき世である。

よって、文字通りの死後の前世・来世の話というより、時空を超越した霊的状態の話として理解した方が良い。

不信の地獄の状態を彷徨い歩く人と、信の天国の状態を歩む人とが、共存する社会が現象界(世)である。また個人も信と不信の間を揺れ動き定まらない。恒久的な審判により棲み分けられていない状態。それ故、現象界(世)は天国と地獄の狭間であり、主が受難したような苦痛と忍耐を要する領域である。

したがって、例え神の恩寵ゆえの信により霊的に解脱した(救済された)としても、自らの力で現象界(世)から解脱(救済)できない。今完全に解脱(救済)できると称する教説は偽であり、またするべきでもないのであり、現象界(世)の中でまだ地獄の苦痛にある者に神の慈悲を実践しつつ、超越者による審判(解脱)の日が訪れる時を忍耐して待つべきである。

※(空論の)注
龍樹(中観派)の空論の難点は、言語には自性性はなく、対象と写像関係にないとしているのだから、自性性がないのは言語の概念の方なのに、一切の対象物の方も相関関係でしか成り立たない空としている点である。空なのはあくまで言語・概念で観た現象の方であり、対象の本質は不生不滅の非言語的実在のはずである。
実在という言語と実在は異なるので空と呼ぶ、と言葉の定義を問題にしても、それは循環論法であり、空もやはり概念だからこの循環論法は永遠に続くので無意味である。精密な言語化は不能だと承知した上で実在と述べるのであれば、それで良いだろう。
その点、唯一の実在の他は一切は錯覚(現象)であるとしたパルメニデスの方が上手である。
そもそも仏陀の教えは諸法無我とは言うが、諸法無梵(ブラフマンは無い)とは言わない。また諸行無常は現象界(我)を指すので、梵のことではない。
また、大乗仏教を理論化した龍樹よりも原始仏教に近い部派仏教(小乗仏教)のアビダルマ哲学は説一切有部(実在論)が主流である。
とはいえ、龍樹は真に存在するのは無分別智(非言語・概念的超越)だということを明確に指摘したという点で評価される。したがって、空論(中論)は説一切有部(実在論)への批判とはなっておらず、むしろ説一切有部に対する補足的事実を示したものとして評価される。
十牛図なども観ても、一度否定神学を極めて無分別智の悟りの境地に達したならば、ありのままの自然が美しく感じられ、万物に対して肯定神学となり、謙虚な慈悲者として人々と出会う、とある。
また、法華経の久遠本仏なども単なる非実在論的空論ではない。永遠不滅の諸法と慈悲を体現する非言語的彼岸にいる超越者である。大乗の空論(中論)と小乗(部派仏教)の説一切有部は実は対立するものではなく、補足的関係にあると理解すると、大乗と小乗の融合を説き、かつ久遠本仏としての存在と慈悲の不滅性を説いた法華経の方が的確に思える。

祝詞(讃歌)
言(子)なる神。現象界、言語的世界に顕現した超越者、小宇宙としての人間、神の像、神の子、啓示。
父なる神。実在界、非言語的世界、無分別智にある超越者、大宇宙としての神、大いなる慈悲と恩寵。
この両者の本来的一体性。両者の媒介は聖霊。不信は罪と死、審判への道(因果)。慈悲なる恩寵として降る聖霊を受容し、無我の境地、自我の死と再生(復活)により啓示(言)への信に至る時、永遠の命。

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