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ある東大卒女子の私見:上野千鶴子さんの東大祝辞に触れて(その1)

2019年4月12日。
その日、SNS上で瞬く間に拡散された東大入学式での上野千鶴子さんの祝辞を、私もすぐに全文に触れて読んだ口の一人だ。

もう3週間も前の話題であるものの、同窓として誰に話すでもなかった話をここに残しておきたい。

上野千鶴子さんのベンチャースピリット

私が東大に在学していた頃、構内にいらっしゃったはずの上野千鶴子さんに直接お会いする機会は、残念なことになかった。講義もとらず、敢えてその機会を作ろうともしていなかったし、さらに著作もはっきりとは記憶していない、という無教養な門外漢であることを先に断っておく。

なので、祝辞の文中にもあるように、新しい学問としての「女性学」「ジェンダー研究」を興していった彼女のベンチャースピリットに触れたのは、今回が"初めて"だった。

彼女の言葉の冷徹さ、刺々しさの向こうにある

私を突き動かしてきたのは、あくことなき好奇心と、社会の不公正に対する怒りでした。

と言わしめる「ないものは作る」というエネルギーの熱さに、実績もフィールドも違うものの、勝手な共感を抱いて、ただただ胸が熱くなった。

最後の最後の「ようこそ、東京大学へ。」の一言の直前には、思わず涙した。

大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。

「誰も見たことのない知を生み出す」その一翼を担いたい一心で駆け抜けた卒後の10ウン年でもあったので、勝手に自分へのメッセージのように受け止めてしまって思いが溢れてしまった。

かなり久しぶりに
「ああ、東大で学べてよかった」
と思ったことも白状する。(卒後に、そう思えたことは数えるほどだ。)

読後にもう一つ思ったことは、
「この祝辞は、人生のタイミングのいつ読むかによって、受け止めることや感じることは全く違うだろうな」
ということであった。

「読み」返してほしい祝辞

先ほどの読後感は、結局のところ卒後様々な経験を経た今の自分だから、そう受け止めた、というもので、私が新入生の立場だったら、同じ感覚感想など到底持てず、また違う受け止め方をしただろうことは容易に想像できる。

ご長女の入学に際して式典に参加されていた、という経済記者の高井浩章さんの指摘ももっともである。
「読む」と「聞く」とじゃ、大違い、だと。

会場での新入生やその家族は、ずいぶんとした語り口に戸惑ったであろう。

私が思うに、上野氏は、その場の聴衆ではなく、もっと広い世間へメッセージを送ったのだろう。

とあるように、私も上野さんが生来の「ベンチャースピリット」を発揮されて、この機会を最大限活かして、広い世間へのメッセージ発信をされたのは明らかだ、と思う。

ただ、今年の新入生の中には、こうして自分が生で聞いた「祝辞」が世間で話題になったことは記憶に残るだろうな、とも想像する。そのことが、今後何年後かは分からないが、「いつか」この祝辞を改めて読み直してみるキッカケとなることを強く願う。

忘れていた、自分が入学したときの祝辞

じつは、自分の入学式のときの祝辞がどんなメッセージだったか、どうしても印象すら思い出せずに、(思い出せたのは、入学前から意気投合したクラスメイトのH。ほぼ黒・紺のスーツで占められていた新入生の中で、彼女と私だけ、"白系"のワンピースで浮いてたこと。その記念にツーショット写真を撮ったこと、だとか祝辞以外のことだった。)思わず当時の祝辞を検索してしまった。

(東京大学広報委員会、『学内広報』No.1213、2001年4月25日発行)

当時の佐々木毅総長の式辞を紐解いて驚いたのは、

「安住の精神」ではなく、これからの新しい社会の形成に具体的な場で積極的に取り組む「挑戦の精神」
・安定は安逸を生み出し、安逸は堕落と解体につながり、どこかで再び「挑戦の精神」による社会の建て直しが必要となる
・社会がどのような運命を辿るかは、結局のところ、そこに生きる人間たちの精神の持ち方に帰着する

などといった「ベンチャースピリット」に通じるメッセージにはじまり、

時事的な課題と、"君たち・あなたたち"の関係
…当時は「学力低下」問題。今年は「不正入試問題」に端を発した「性差別」問題。
・勃興・再定義される新しい領域の学問の話
…当時は、「挑戦の精神」と共に必要な教養(知的能力の涵養・「魂の深さ」)、今年は女性学にはじまり、時代の変化が求めた学問について
・東京大学で学ぶ価値や必要な学ぶ態度(広く社会へ還元する姿勢)への言及

などなど、じつは上野千鶴子さんの祝辞と根幹をなす構成要素もメッセージの質も酷似していて、私個人が受け取った読後感自体も、驚くほどよく似た感動であった。

じつはそう受け止めたのは、20年近い歳月を超えても東大入学式で発せられるメッセージ自体が近い、というより、いずれの読み手も「2019年現在の私」であった、という共通点によるところが大きい、と思う。

今回の騒動をきっかけに、改めて当時の資料を引っ張り出して読み直す機会をもらったことは、そう受け止める今時点の自分(そう受け止めざるを得ない自分)やその中に流れるストーリーを自覚する、という意味で非常に貴重だった。

どんな物語(ストーリー)を生きているか?

昨日の「無自覚の自覚」話題に絡めての本来書き残したかった本題がここからだ。

同じ東大卒女子の多くの友人知人を思い浮かべながら、どうしても書かなければ、という思いがこの3週間、心の中をくすぶっていた。この燃え残りをどうにかしたかったことも、実は今回のnoteアカウントの開設や連日の記事の書き始めのキッカケでもあった。

、、と残念ながら「娘が寝静まった後」という条件で書いていると、今日の体力は切れてしまった。続きはまた明日、筆をとろうと思う。


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