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のーを軽くすれば、もうちょい気楽な世の中になるかも

コクってフられると凹む。それは恋する相手といちゃつけないのが悲しいのではなく、まるで全人格を否定されたように感じるからだ。実際は恋人にはなれないと告げられただけなんだけどね。

営業先で断られて、モチベーションが下がるのも似たような事だ。売り込もうとした商品やサービスが必要ないと言われただけなのだが、自分自身を拒絶されたように感じる。

その点、ナンパ師や、やり手の営業マンは、相手からの「No」をフラットに捉えるから、行為を継続する事が容易で、後は結果が出るまでやればいいのだ。

さて、何も日本に限った事ではないが、日本人は「NO」という言葉に恐怖と嫌悪を感じる傾向が強い。そして内容に関わらず「NO」を突きつけた相手から全てを否定されたように錯覚し悩む。
もちろん、自分が「No」を突きつければ、相手にダメージを与えかねないと配慮もするから、慎重に言葉を選ぶ。

だから、日本語では「イヤ」「ダメ」というあからさまな否定ではなく、「遺憾に」とか「検討してみます」とか、そういう婉曲な否定表現が発達している。だいたいコクられて「ごめんなさい」と謝るのも、おかしな話だ。

もちろん、この「Noが重い」という束縛の中で生じるのは、告白や営業の問題ばかりではない。
「過労死」や「品質偽装問題」は会社にNoが言えず、「ストーカー」はNoと言われたくないから密やかに忍び寄り、そこにNoと言えば、全人格否定されたと思って、それを覆す為に暴力に走る事もある。

外国とのお付き合いにおいても、判断ミスに気づいた時点でNoと言えば済んだのに、それが出来ずに大失敗というMAや外交問題だらけで、
「日本は戦争に負けたから言いなりになるしかない」
と陰謀論を唱える人もいようが、いやいや単にNoが重いという宗教のせいだと僕は思う。

そして、この宗教下では、特に偉くなるとNoを突きつけられる機会が極めて少なくなり、Noに対する免疫力が低下し、自己批判機能が失われ、ぶっちゃけアホが進行する。
日本の組織での、下っ端は優秀でも上がアホという伝統も、ここに起因する。

だから、このような社会問題を解決するには、Noを軽くするしかない。その為には僕らはもっとNoに親しむしかなかろう。
そこでだ。昔「戸締まり用心火の用心」というCMがあった。その中で笹川良一という、賛否両論ある大人物が「一日一善!」と気勢をあげる。同じように

一日一No!

って出来んかなぁ。このCMのフレーズ、おそらく僕ら世代の人間なら、ほぼ皆、頭の中に焼き付いてるはずだ。そんくらい影響力大きかった。
それでこのCM曜日バージョンがあってだね。火曜日なんか猿がタバコ吸ってるんよ。現代じゃありえんよね。僕が好きだったのは水曜バージョンで「水は命のお母さん。すいすいすいすい水曜日。一日一善!」っていうのだ。
僕が「水曜日のカンパネラ」を好むのはここら辺に根っこがあるような気がする。

日本財団へのアピールはとりあえずこのくらいにしておいて、ともかく、僕ら一人一人がNoを軽くしていくことで、社会は変わるかもしれん。
noteの中だって、ただただ「そうだね、そうだね」言い合ってないで、違うなと思えば批判して、批判される側も個人否定と受け止めずフラットに受け入れる。そんな場であって欲しい。

僕が推進しているハッシュタグno民には、そんな意味合いもあるのだよ。後付けだけど。

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