見出し画像

木曜日の憂鬱

僕にとって小説を書くのは、夜中に崖の上から沢に飛び込むような感じだ。そして、息が続く限り、飛び込んだまま川底を潜る。「もうダメ」と水面に顔を出すと朝。

小説書いてる人なら分かるかもなぁ。それを金曜日の夜にやることにしてるから、今はちょっと気だるい。
ドMだし、こういう感覚が嫌いではない。が、やっぱり怯むわけだ。

小説というのは頭の中の物事を文字にすることだから、それはそれで大変だけど、フィクションならばまず無いところからイメージを作るわけなので、これがまた一苦労だ。

僕が今取り組んでいるノンフィクションは、イメージはあるけど、パズルを組み立てるようにイメージを再構成する難しさがある。

そして、大抵のノンフィクション小説は、第三者が取材して書くものが相場だが、僕の場合当事者だから、これがまたキツい。
特にクライム物では、当事者が書く物は、偽善なり偽悪に偏りがちで、そうなるとノンフィクションと言い難い。

じゃあ、当事者や関係者のキャラクターや心理描写を抜いて事実だけ淡々と書くとなると、これは新聞記事か供述調書みたいになってしまい、小説とも言えなくなる。

今書いている小説は、元々出版する予定で、出版社と打ち合わせもして、そん時はとりあえず僕のインタビューをベースにプロが書くという予定だった。

しかし、僕が警察に提出するために書いた原稿が、まあまあ出来が良かったため、じゃあ真田さんが書いてみようか。という話になり、そのうちに事件が旬でなくなったため、出版の話が立ち消えになったという経緯がある。

もし、そのまま出版していたら、何がしかのお金は入ったかもしれないが、事件報道が更に炎上していただろうから、今頃バイトなんか出来る立場になかったかもしれない。

それから、僕の記事の中では小説の人気はイマイチなので、ほとんどの方にとっては僕の「真田節」が、イメージとして出来上がっているかもしれない。だが小説では「真田節」を封印している。自分で言うのもなんだけど、書く時も雰囲気まるで違う。

まあ、遠藤周作も「海と毒薬」書いといて、狐狸庵先生だったりするわけなので、ホントに先生は偉大だったんだなぁ。と最近特に思う。

で、noteでも小説、特に長編書く人の文章は、エッセイや書評でも表現の幅が広くて、読みごたえが違う。良い意味で「ん?」と引っかかる所があって「そう書くかぁ!」って膝を打つよな、そんなのを見つけられるのも、自分でも書いているからなんだろうな。

ニーチェは「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」と言ったが、その深淵に今から向かう。

なんかまだ頭の中がゴチャついてるから、夜中になんかもう一本くらい書いて、スカッとするか、テキトーな本でも読んでテンション高めるか考え中。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?