「自由にやって」が苦手だったあの頃
前回のnoteで小学校時代を振り返っていて思い出したことがある。
私は「自由にやって」と言われると非常に困ってしまう子どもだった。
例えば図工の授業。
絵でも粘土でも木工でも、好きなものを作っていいと言われると何を作ろうか考え過ぎてしまって結局手がつけられずにいた。
自由研究もそう。
何を題材にするかすごく悩んで後回しにして、夏休みの終わりに父に手伝ってもらいながら何とか完成させるのだ。
1番困ったのは自分で曲を作る授業。
本当に困ってしまった。子供ながらの感性で適当に音符を並べるだけでいいのに、それができない。おかしくないか、変じゃないかを気にし過ぎていた。
創作ダンスも大の苦手だ。
ほとんどチームメンバーが考えてくれたので助かった。決められた振り付けを踊る方がラクだ。
と、まあ色々思い出してみたが、本当に「自由にやって」が苦手な子どもだった。
オリジナルのものを「人に見せる」のがとても恥ずかしくてできない性格だったのだ。
作品は自分自身だ。
それを貶されたり否定されたらたまったものじゃない。
だからこそ、誰から見てもおかしくない作品に仕上げなくちゃと気持ちばかり焦って、思うように手がつけられなかった。
今思うと気にしすぎである。
良くも悪くも完璧主義だったんだな。
結局思うように作れていないので、完璧ではないのだけれど。
逆に人に見られなければ好き勝手に絵を描いていた。当時の趣味は絵を描くことだったので、好きな漫画のキャラクターをたくさん描いたものだ。
でもそれは決して人には見せない。
クラスに絵が上手い子がいて、みんなにイラストを見せてはクラスメイトに褒めてもらっているのを見ると、何だか羨ましかった。
どうして堂々と人前で絵を披露できるのだろう。
やっぱり描き続けている自信がそうさせるのかな。
結局、私は絵を披露することはなかった。
移り変わって今現在。
「自由にやって」が苦手だった子ども時代の反動のせいか、むしろ自由にやれる方がラクだと思い始めた。
模倣や真似や決められたことは、自分の不得意かつ面白みのない分野の可能性がある。
でも自由であれば、自分の得意かつテンションの上がる方向に持っていけばいい。
自分の好きなもの、自分の感性、それらを表現するのが死ぬほど苦手だった子ども時代から見ると、だいぶ成長したものだ。
急に価値観が変わったわけではなく、徐々にグラデーションのように変わったのである。子どもから大人へ、社会人へ、経験が増えていくごとに少しずつ耐性がついてきたのだ。
そして、もっと自分を出していいんだとやっと思えたのだ。
子どもの頃は世界が狭過ぎて、正解が一つしかないものだと思っていた。
「変じゃない、おかしくないもの」
それを外れることが、怖かったのだ。
「自分の好きなもの、感性」を軸にして考えるということができなかった。
逆に大人になった今は、個性的なオリジナル色が強いものに惹かれる。
個性を出している人、好きを徹底して生きている人に憧れもある。
私も「わたし」を前面に出して生きたいし、自分の感性を大切にしていきたい。
自己表現することに、もう遠慮しない。
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