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Diversity & Inclusion時代における多数決の役割

秋の空気は少しだけ物事を俯瞰的に見せてくれる気がする。

多様な価値観を尊重する、という事に対してもはや異論をはさむ人はいないだろう。
でも、その実践が簡単ではない事、尊重しつつもそれと相反する判断をすべきケースもある事が、物事を複雑にしているのではないか。

多様性と共感のループ

多くの人は、仲間、自分のことをわかってくれる人、価値観を分かち合える人を欲するのではないだろうか。その前提に立った時、多様性の追求、何かに一括りにされない個の追求をすればするほど、より一層共感したい/してほしい、と言う感情が生まれる。いわば多様性による分散に対する反応として、共感による収束というベクトルを生む
他方で、共感できない価値観を持つ個を排除するのではなく、それはそれとして尊重するとすれば、収束し続けるわけでもなく、収束から分散に向けた逆のベクトルを生む。従い、分散と収束の間で揺らぎながらループする。

相反する価値観の尊重

せっかく勝ち取られた共感。これに相反する価値観を認めるのは、努力が必要だ。
違いを攻撃しない。攻撃されても受け流す。干渉しない。
ここ5年で顕著になった炎上、叩きやすいものを叩く文化は、自分が少しでも共感できるものを常に探しているからこそ、拡張しているのではないか。

一歩引いて冷めた目で。
人類史上初めて、全世界の個が一定の発信力を持った時代に生きているからこそ、自分の価値観に相反するモノ、コト、ヒトがあったとしても、これを否定する言動を私的な空間に留める義務がある。

本当にそれだけでいいのか?

価値観は人それぞれ違っていて良い、干渉しない、と言うスタンスを取るのが基本的には必要だと私は考えるが、それでは解決できない課題もあるだろう。
人類全体、地球全体の観点から必要不可欠な多数派の価値観があった場合、これに反する少数意見があったとしても、多数派の価値観に沿った判断、行動を社会全体が行う事は許容されるのではないか。
例えば、「多様性を尊重すべきではない」という価値観が仮にあったとしても、これを社会全体で否定することは許容されるだろう。地球温暖化についてはこれを否定する価値観もあるかと思うが、徐々に社会全体で推進すべきコンセンサスになってきている。

社会的正義の決め方

社会全体で推進されることが許容される多数派の価値観を、「社会的正義」と呼ぶことにする。何を社会的正義とするかについては、慎重でなければならない。ややもすると、多様性や少数派の否定のための道具になりかねない。

社会的正義の基準については、今後議論を深めてゆく必要があるだろうが、少なくとも以下は含まれるであろう。
① いかなる立場(未来の人類を含めて)においても公正と考えられるもの(J.ロールズ的な正義)について
② すべての個に同一の正確な情報が手にできる前提で
③ 一人一票を投じた場合に
④ 圧倒的過半数(75%程度以上)が賛成であった場合

全世界の個が一定の発信力を持てるからこそ、全世界の総意を実際に確認できる時代。これを愚直に行ってゆく事が、多様性を尊重しながら残すべき未来を前向きに作ってゆく道なのではないか。

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