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61.Vaundyから考える、賞賛と愛情

「今1番オススメのアーティストは?」
と聞かれたら、1番に答えるのがVaundyだ。

才能に溢れた声、音。
音楽の細かいことはわからないが、きっとあなたも惹かれるはずだ。

さらに彼の曲の中で1番は?と尋ねられたなら、私は『僕は今日も』をおすすめするだろう。

彼の曲の中ではメジャーな部類ではない。
でも、初めて聞いた時に、心が震えた。

先日も友人にこの曲を勧めた。

その時に改めて「私はこの曲のどこが好きなんだろう」と考えたので、このnoteにまとめていきたい。

※読む前に1度自身で聴いてみることをオススメする。


『僕は今日も』

母さんが 言っていたんだ
「お前は 才能があるから
芸術家にでも なりな」と
また根拠の無い言葉を

『僕は今日も』は、この歌い出しから始まる。

Aメロでは、彼の近くの人々、父や母、彼女が彼をどう評価していたかがわかる。

父は「親不孝」、彼女は「イケメンじゃないけどかっこいい」。

これらの言葉を、褒め言葉であっても、彼は素直に喜んでいないように感じる。

そしてそれを受け、Bメロでは自分に言い聞かせている言葉(暗示)と現実のギャップを描き、サビでは「もしも僕らがいなくなってもそこに僕らの歌があればいいや」。

つまり、最後はどうであれ、結果が残せればいいや、そんな想いを歌い上げているように聞こえる。

確かに僕らは結果を出すために動く

私自身も学生団体などの経験から、彼の歌っていることがわかる気がする。

私のやっていることは、曲のように「僕らが死んでもそこにある」ことは難しいかもしれない。

しかし私がいなくなっても、活動したことで誰かの心を動かしたり、少しハッピーにした。そんな結果は残っていく。

その結果を残すために動いている。そして結果を残していくことで他人から賞賛され、認められ、生きていく。

Vaundyにとってはこの『結果』が「歌うこと」であり、多くの大人にとっては「働くこと」かもしれないかと感じる。



ラスサビの大逆転

しかし、この繰り返しで曲が終わる訳では無い。

ラストのサビの歌詞は、こうなっている。

もしも僕らに才能がなくて
もしも僕らが親孝行をして
もしも僕らが生きていたら
そんなことを思ってさ 弾き語るよ

母や彼女に「才能がある」と賞賛され、父には「親不孝者」と言われた。

もし、そうじゃなければ。そうじゃない状態で生きていれば。

そう、力強く歌い上げている。

それは、「才能がないことによって結果を出せないことへの危惧」というより、「才能がなくて、親孝行できる自分への憧れ」に感じた。

もっと言えば、最後の「もしも僕らが生きていたら」の続きは「それでも愛されていただろうか」ではないかと感じる。

Vaundy自身、1stシングル発売からまだ1年と早いが、すてにSpotifyのCMソングに起用されたりドラマの主題歌になったりとその才能を発揮している。

でも、もしこの才能がなくて、ちゃんと親孝行できていれば、こんな現実じゃなく、歌うこと以外で愛を感じ、結果ではなく人として愛されていたのではないか。もっと自分を認められたのではないか。


マカロニえんぴつの『愛のレンタル』という曲の歌詞にも「僕らに足りないのはいつだって アルコールじゃなくて愛情なんだけどな」とある。

アルコールを大きく「その場を誤魔化すもの」と捉えると、「賞賛」も自分を認められない自分を誤魔化すための物のように感じる。

才能溢れるVaundyに足りなかったのも、結果とそれに対する賞賛のような、自分が歌う意味をその場その場で誤魔化すものではなく、誰かからの愛情だんたんじゃないか。


そう、感じ取ってしまった私の方が、愛情不足だろうか。

ぜひ、もう一度聴いてみてほしい。
私は勝手ながら、彼自身の葛藤みたいなものを感じ取った。

あなたはどうだろうか。


いつも読んでくださってありがとうございます。