#36 ASDとヨーガ
Threads に書いた、ASD(自閉スペクトラム症)とヨーガについて、加筆してまとめてみました。
(Threadsでは「発達障害」と書きましたが、私が自覚する自身の性質はASDなので、「ASDとヨーガ」としました。)
「好き嫌いへのこだわりの強さ」がASDの特性
ASDの診断やセラピーを受けたことはないのですが、下記の特性が当てはまり、小学校の不登校にはじまり、折に触れて生きづらさの原因になっていました。
・こだわり、主観性の強さ
・白黒思考、「0か100か」で考えがち
・規則性(ルール)があることが好きで、柔軟な対応が苦手
・感覚的な理解が苦手で、言葉で論理的に理解したがる
・言葉を言葉通りに受け取りがちで、言葉の背景を想像することが苦手
割と典型的だなと自分でも思います^^;
ASDの特性は、ヨーガの言葉で言うと、ラーガ・ドヴェーシャ(好き嫌い)への「こだわり」の強さと言えます。
「お気に入りの物や状況への執着の強さ」とも言い換えられます。
ヨーガは、ラーガ・ドヴェーシャから自由に、ダルマ(調和)の行いを選ぶための教えです。
「心」を特定の性質を持つ「物」として扱うので、感覚的ではなく論理的に理解ができます。
そして、「どう感じるか」は変えられないが、「どう振る舞うか」は理解によって変えられる、ダルマ(調和)を拠り所にして、行動を変えていこうという教えです。
ASDが苦しいのは、調和が選べない時
神経発達症(発達障害)と呼ばれる特性が生きづらさとなるのは、「独特な受け取り方」そのものではなく、その結果、「周囲と調和した行動が取れない」時です。
良心や道徳が欠けているわけではなく、本人も周囲と調和したいのですが、調和の価値よりも「好き嫌い」の価値が大事に見えてしまうのです。
(そもそもそれが、自分の主観的な好き嫌いだという自覚が難しいため。)
その結果として不調和が起こる時、本人も居心地が悪くなり、自分に自信を持てなくなります。
「ダルマ(調和)を選べない私は自己尊厳を持てず、自己尊厳のない私はダルマを選べません」
抜け道のない、相互に依存し合った状況の苦しさがあります。
抜け出すには、苦しさの原因は「好き嫌いが叶わないこと」ではなく「周囲との不調和」であり、周囲と摩擦しながら自分の好き嫌いを通しても、安心や喜び、心地よさは得られないということの理解が大切になります。
「それが人間の心の仕組みです」という教えがヨーガです。
「できるまでできるフリをしなさい」とも言われる、ある意味割り切った教えは、認知行動療法にも通じるものがあり、ヨーガは最古の「ソーシャルスキルトレーニング」ではないかと思います。
ヨーガは客観性を養うプログラム
ASDの特性に対してヨーガが優れている点は、ヨーガが「客観性を養えるプログラム」であることだと思います。
私のように、成人してからもASDが問題となるのは、ASDは「自覚しにくい」ためではないかと思います。
そもそも主観性が強いので、自分の考え方が独特であることが客観的に評価、理解しづらく、何が自分の生きづらさ(主にコミュニケーションにおける障害)になっているか気付きにくいのです。
自分も40年近く、自分の考えの特性(癖)がなんとなく感じる生きづらさの原因だとはっきり自覚できていませんでした。
正確には、辛い体験を繰り返す中で、自分の癖には気づいていたのですが、「でもそれが自分(の個性)なんだ」と、変な肯定の仕方をしてしまっていたように思います。
今なら、「それはたしかに『私の』考えの癖で個性だけど、『私』は考えの癖から自由に調和の行いを選べる人だ」と言うことができます。
この間のギャップを埋めてくれたのが、私にとってはヴェーダの教えとヨーガの実践でした。
(一般に広く「ヨガ」と認知されている)アーサナ・ヨーガと呼ばれるエクササイズや呼吸法の練習で、ある程度身体や呼吸を扱えるようになると、同じ要領で思考も客観的に見れるようになります。
それまで、身体と呼吸と思考と感情気分と感覚器官となんやらがごちゃっとひとまとまりになったものをなんとなく「私」としていたのが、「私の身体」「私の思考」と、それぞれを対象物(つまり物)として、識別できるようになります。
ある程度識別が持てた人に、ヨーガはひとつの事実を教えます。
「問題の原因はあなた(の考え方)です」と。
全ては、「あなたの見方においてそう見える」のだと。
「思考=私」と思い込んでいる時に言われたらショックですが、アーサナの練習の結果、なんとなく「思考が私ではない」ことがわかっています。
ですので、「私が悪い」わけではなく、「私の考え(物事の見方)が問題の原因」なら、それを改めてゆけばよいだけなのだと理解できます。
さらに、
「問題がないところに問題を作るのが人間の問題」
という言葉で、それが自分だけの問題ではなく、人間の普遍的な問題であることを教えてくれます。
ヨーガへの感謝
ASDとは関係がないかもしれませんが、私は子どもの頃から人一倍エゴが強く、自分の間違い、至らなさを指摘されることが受け入れられませんでした。
「考え」や「行い」と、「私」の識別ができていないので、「その考え方、振る舞い方はよくない」と言われると、自動的に「あなたはよくない人間だ」と考えの中で置き換わり、「自分自身」を否定されたような気になって落ち込んだり怒ったりしてしまうのです。
謎のプライドの高さは今でもなくなったわけではなく、相応しい状況が整えばポップアップしてきて、「まだいるよ」と教えてくれます^^;
それでも、そうした性質を、ある程度支障のないレベルにまで中和してくれたのもヨーガです。
先生からヴェーダを学び、ヨーガの実践や瞑想を繰り返す中で、少しずつ客観性が養われ、不必要な、合理的でないプライド、傲慢さが中和されていきます。
シヴァ神が、「誰もが幸せに生きるための方法」として、パタンジャリ(アナンタという蛇の化身した姿)を通じて人間に伝えたというヨーガに、間違いなく自分は救われたと感じています。
(きれいにまとめてみました 笑)
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