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感想「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」-戦争の記憶を語る人を語った人びとをさらに語る世代が来るということ

 日本国を指すときに「この国」というワードに逃げなかったな……というのと、「日本のために頑張りましょう!」精神が悪役の言葉になっていた点では、非常に特異で興味深い映画だったと感じる。

 念のため言えば、悪いのは「日本のために頑張る」ことではなく、「日本のために頑張ることで犠牲者が生まれることを肯定するシステム」である。 映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」過去、あるいは一つの時代、あの戦争の時代の犠牲者を生むシステムからの決別と考えると面白い。同じ過ちは二度繰り返さない。

 母親のように、亡き戦友のように他人に踏みつけられない人生を生きるために「強くある」ことを信条にしていた水木、が目指していたもの。それは日本の繁栄(1956年は高度経済成長期の初期、はじめの萌芽だった)の元での、自分の繁栄だった。
 その「繁栄」の具体的内容とは、結局を極めれば、当主・時貞の言っていた良い服を着て、良い酒を飲んで、良い女と…であった。それが明白となった時に、彼はどのような選択をするのか、という話だった。

 戦後の日本で成功する、ということを、なんとなく「幸せなこと」という概念でしか捉えきれないまま、水木は10年間がむしゃらに生きのびてきたのではなかろうか。意味もなくビンタされるあの世界よりはマシだと思ったはずだ。実際、ある意味でそれは正しかった。
 が、水木の進もうとしていた世界は(彼の善性には明らかに反しながら)「誰もビンタをされない世界」ではなく、「ビンタされるのではなくビンタする側になる世界」だった。

 ところで森崎和江は、伝統的社会から外れた植民地特有の人工的な近代空間、入植者ゆえに先祖・老人も居ない親子2世代家族ばかりだった、植民地朝鮮の出身であるがゆえに、(雑な言い方になるがありていにいえば)「日本の閉鎖的なムラ社会」が大嫌いだった。
 彼女は、そこでは私個人の性格や人格は関係なく、「おくに」(≒出身地、所属)がどこなのかですべてが計られる空間だった、と言っている。
 長崎の列島の先のほうにあるとある島、その島の人びとは島原の人から差別を受けていたので、遠方との結婚が出来ず、血族同士の結婚を繰り返している。あるとき訪ねた島でその現状を聞いた彼女が、それを形容して曰く「”おくに”はここで極まっていた」だった。彼女が嫌いな「身内根性」と、濃い血統を同種と見てていたのは興味深い。
 彼女は近代日本の膨張政策の犠牲者に真摯であり、それを作った近代日本の、帝国主義の、犠牲者を生んだシステムを批判していた。

 近親姦は、そのような犠牲者のシステムの象徴であったと思う。
 あのシステムは映画「ゲゲゲの謎」の登場人物たちが不幸になる諸悪の根源だ。けれど不幸の根源だけが必要なら、正直必ずしも近親姦でなくともよかったのではないかと感じる(PG12指定の一因かもしれないし)。もっと妖怪のせいにしてみるとか。根本的に物語を組み替えるか、あるいはもう少し「アニメ映画らしい」無難な話にもできたのでは、と個人的には思う。

 だがあの”人間の”因習は必要だった。なぜならあれは、国家の、戦争の、膨張主義の、あの時代の犠牲者を生んだメタファーになっていたからだ。
 ここからは非常に言語化しづらくなるのだが、近代特有の暴力と性とは密接に結びついている。「思春期に文学に出会ったときに、差別=被差別と暴力、プレッシャー(あるいはストレス)とセクシュアリティには何か関係があるという感覚をつよく感じていました」というのは、ポストコロニアリズム研究者の西成彦の言葉であった(『現代詩手帖』2019年8月号)。

 そのシステムが戦争帰りの水木の前に”再び”現れた。
 その実行者が、甘言で「下れ」と迫る。お前は強くある側だという。それが「幸せなこと」なのだと。血を吸う側になるのだ。ビンタされたくなければビンタしなければならない。

 しかし沙代の死、時弥の末路を見てしまった水木はそれができなかった。
 それを斧で切り捨てた。
 繰り返すが「強くある」こと、また誰かや自分を弱い「負け犬」と切り捨てるということは、作中での時貞のやっていたことであり、哭倉村、あるいはあの軍隊、もしかしたら軍隊を擁していた戦前の日本だった、かもしれなかった。
 時貞に下って会社を持ち、物質的な富を得られる選択肢を提示された水木が選んだのは、その「過ちの繰り返し」「ビンタする側」ではなく斧を振り下ろし、その犠牲者を生むシステムからの決別だった。再び過ちは犯さないと誓った。

 それをキャラクターの正しい行動として描くことで、制作陣の「水木しげる生誕100年記念作品」と来たる戦後80年への想いを感じた。戦場帰りはもういなくなりつつあるのだ。戦争を語った彼らの栄光と苦悩を語った人間、それをさらに語る世代の時代がやってくる。
 これは父たちの栄光の話である。が、戦場での栄光ではないことに気づいただろうか?戦争「後」の栄光であるのは、時流に則れば極めて自然なのかもしれない。そこには、戦争そのものが遠くなった私たちへの世代の切り替わりがある。語った者を語った人々を語るということ。これは最後の現代パートで強く意識された主題だったと思う。

 登場人物のきわめて個人的な理由や利害に寄った行動によって、その個人の運命や行く末が変わる、ことに付随して、その世界の旧体制的で害悪なシステムが崩壊したり変革されることを物語で描くことで、この現実世界に人間の善性を是とすることを訴える、という形式で作られた物語だったと思う。

 このストーリーで提示されているのは戦争の教訓と人間の成長だ。

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