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コロナ禍で思うこと。それそ〜れの生き方。

私は持病と付き合ってもう35年になります。

長い!

子役から大人まで活躍してるようなベテランと言える年数です。
その経験を活かしたくて今の職業を見つけました。


私は急性期病院の管理栄養士をしています。そして、慢性腎臓病患者です。

私が管理栄養士を知ったのも、管理栄養士になろうと思ったのも、学生時代の慢性腎臓病での入院がきっかけで、都合の良い思い込みの結果とも言えます。自分への暗示がかたちになったと言うか。


初めて腎臓病と言われたのは5歳の時、と言ってもその時にそうはっきり言われた記憶は当然ありません。だからここからしばらくの話は、事実と異なる部分ももしかしたらあるかもしれません。


幼稚園年長組の秋、膝から下にアザのような紫色の斑点のようなものがたくさんできました。内出血のようなもの。自覚症状はなかったと思います。
当時実家の向かいに住んでいた、近所で開業していた医師のクリニックへ連れられ、大きな病院を紹介されました。紹介された病院へ行き、医師になんと言われたかよくわかりませんが、入院することになりました。

実家を離れてからも、帰省したときにその病院の看板を見ると、なんとも言えない気持ちになったものです。
今もその病院はあって、当時は違いましたが今はある大学附属になってるようです。

自分自身のその時の感情は覚えていません。親はきっと、不安や自責やいろんな思いがあったと思う。きっと泣いたんじゃないでしょうか。
子どもがなんだかよくわからない病気で入院する、しかもいつ退院できるかまったくわからない状況はただだだ不安でしかないですよね。
自分が親になった今はそういういろんな感情がごちゃまぜになった事は容易に想像できます。


その時の病名は紫斑病性腎炎。その病名を認識したのは小学校高学年くらいになってから。でも病名を知ってるだけの程度。
幼少期に自分がどう病気を受け入れたのかもよくわかりません。
5歳ですしね。
結果としては6ヶ月間入院しました。
5歳児にとっての6ヶ月は恐ろしく長い時間です。


入院したのは1985年12月。なのでクリスマスも年末年始も、誕生日も病院のベッドの上で過ごしました。
当時は安静にしなければいけないとの治療方針で、入院後しばらくの間はベッドから降りて自分で歩くことは許されませんでした。

入院していた頃の数枚の写真を見返すと、痩せてしまってはいますがどれも笑顔です。周りのことが何もわからない年齢だからだろうし、他の世界や生活のことなんて考えず、病院を自分の世界だと認識して毎日過ごしていたんだと思います。
それに家族の支えがとても大きい。母は毎日付き添ってくれたし、病院に頼み込んで一緒に寝てくれました。
私がいたのは子ども用ベッドですから、サイズが小さく、上まで上がる柵もついてました。
そんな狭いところに寝るなんて、普通じゃない!
私が母に頼んだのかもしれません。たぶんそうでしょう。いや、間違いなくそうでしょう。通常のルールから逸脱してますから。
大部屋だったので、今なら不可能なこと。
私が泣いて懇願したんでしょうね。
実際はそれだけ寂しがっていたんだと思います。

父はお得意の自分なりの解釈(思春期からは逆にこれに悩まされる!)で、ベッドから降りて歩くことをしなければ良いんたからと、私をおんぶして病院の屋上へ連れて行ってくれました。
屋上には物干し竿があって、シーツがたくさん干されて風になびいていたことを覚えています。その隙間をグルグル回ってくれたりして。
ただそれだけかもしれませんが、自由に病室から出られない狭い世界にいた私にとっては、空が見えて、風や空気や温度を感じられる屋上は、ある意味冒険に出かけた気分でした。(大げさ!)

ベッドから降りる許可が出てからは、同じ部屋に入院している他の子たちと遊んだかな。でも何をして遊んだかは覚えていません。
年上の虫垂炎で入院してた子とオセロをしたことだけは覚えています。あの時の私から見てお姉さん、当時はちゃんとお礼を言えてなかったかもしれない。この場を借りて、ありがとうございます。


ただ、さすがに入院期間が半年もあったので、私より後から入院した子が先に退院する環境は親も私もつらかったと思います。
それでも、幼少期なので覚えていることは少ないですが、つらかったことよりも楽しかったことが記憶に残っているのは、家族のおかげです。
誕生日ケーキが紙製とか、大事にしていたドナルドダックのぬいぐるみがいつもそばにいてくれたとか。
「ケーキが食べられなくて残念」
より、
「紙のケーキがもらえる子はそういない。これは自慢できることだ。」と思えたんです。
いま振り返ると、悲観的になるよりも、楽しく過ごすにはどうしたら良いかを考えてくれていたんだなあと感じます。

入院から半年後、1986年5月に退院しました。ですので幼稚園の卒園式や小学校の入学式には出ていません。
その時の親や自分には大事なイベントだったんでしょうけど、出られなくて残念という気持ちは小学校に行けるようになってからもその後にも残ってませんし、土地柄のおかげで幼稚園から小学校に移っても同級生の顔ぶれもあんまり変わらないし、出られないものとして受け入れていたと思います。

その頃はまだ家に帰れる見込みがなかったから。いま思い返せば、目の前の事実を素直に受け入れる、受け止める性格はこの頃に作られたのかもしれません。


いま新型コロナウイルスの影響で、行事ができず、出かけることもしにくく、子どもたちにも様々な制約がありますが、今を受け入れられるか、どう楽しく過ごすかは周りにいる大人たちでどうすることもできるように思います。
私の場合は体育や運動が許可されるのも退院して何ヶ月か経ってからでした。身体に負担がかかるからとの理由で退院直後は授業を1時間目しか受けられず、一人で早退でした。

私の幼少期といまは時代が違うし子ども向けの娯楽も違います。何よりこれは私個人の感じ方であって、他の方たちもみな同じとは思いません。
私よりも大変な思いをしている方もたくさんいると思います。でも、私のような幼少期を過ごした人のほうが少数だと思います。
それでもそういう幼少期を過ごした私に言えることは、子どもは子どもでその豊かな想像力で何でも楽しく感じられるし、これから先にも楽しいことはたくさんあるはずです。

もしかしたら、私は入院中にしょっちゅう泣いたのかもしれません。退院できたのも親が

「どうしても退院させてほしい」

と頼み込んだからという話も、大人になってから聞きました。
とは言え、記憶に残るのはつらかったことよりも楽しかったことの方が多いことは事実です!


入院中に強くなれたこともあります。長い入院生活で特別なことを毎日していたわけではなく、安静にして、薬を飲んでという生活でした。
その中で毎日のように採血があり、誰が採血してくれるか上手いか下手か、上手ければうれしいし下手なら嫌になるのではなく下手だったねって笑ってポジティブに捉えるように家族が支えてくれました。

「あの先生、今日は3回も刺し直したよ〜」

「今日は2回だった。上手くなった?」

「針刺してからグリグリするのは下手だよね」

等と言って。
この頃に相当な回数の採血をされたので、針を刺されることに怖さを感じることは少なくなり、例えば学校の予防注射でも周りで泣いてる同級生がいても自分は平気でした。
本来は慣れなくて良いことですけどね。


ということで、とても制約がある時代と、個人的に制約のあった幼少期の私を重ねて考えてみたお話でした。

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