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生きていていいよ、と言われたい

献血が好きだ。そう言うと痛いのが好きなのか、とか注射も好きなのか、と聞かれることがある。特段苦手では無いのだが、針を刺される感覚や血を抜かれる感覚が好きな訳では無い。『献血』という行為そのものが好きなのだ。生きていていいよ、と認められるみたいで。

献血にも種類がある。一般的なのは200mlと400mlの全血献血。文字通り200mlか400ml血を抜き出す献血だ。といっても、200mlはあまりメジャーではなく、献血にご協力お願いいたします!と駅前で呼びかけているスタッフの多くは『400ml』と書かれた看板を持っている。しかし、400mlの献血は体重50kg以上が条件となっているため身長が150cmちょっとしかない私にとっては少々高いハードルだ。
では、どうやって献血に行っているのか。私は成分献血に協力することが多い。ラブラッド(日本赤十字社の献血サイト)によると、成分献血とは『成分採血装置を使用して血小板や血漿といった特定の成分だけを採血し、体内で回復に時間のかかる赤血球は再び体内に戻す方法』である。つまり回復しやすい成分だけ献血するという方法だ。この方法であれば体重による条件なく献血に行くことができる。1時間程度かかるがさして問題ではない。

このように献血に入れ込んでいる、と話すと周囲の人間は訝しげな表情を浮かべる。注射も血が抜かれるのも好きでも得意でもないのにどうして他人のために時間を取って血を捧げるのか、1mmも理解できないといったように。しかし、私のように献血に救われている人間もいるのだ。献血だけでは無い。街で困っているお年を召した方や育児に疲れていそうなママ、パパ。皆が私を救ってくれている。『なにかの、誰かの役に立っている』それだけで社会から『生きていていいよ』と言われた気持ちになるのだ。それだけで、救われるのだ。

役に立たない人間に生きている価値などない、そう思っている訳では無い。私は人間は生きているだけで、存在しているだけで素晴らしいし究極生きていなくてもいいとさえ思っている。でも、ごくたまに不安になるのだ。自分のような生命が居ることでなにか社会に悪影響を与えてはいないか、生きる価値などないのではないか、『私が幸せに生きていてもいいのだろうか』と。これは私の心に巣食う黒いシミだ。急に消えることは無い。私のように好きなことをして楽しく順風満帆に生きている者でさえ、その帳尻を合わせるように希死念慮が押し寄せることがある。そんな時、人助けに助けられるのだ。高齢の方の荷物を持って「ありがとう」電車内で泣き止まない赤ちゃんを顔芸であやすことで「ありがとう」献血をして「ご協力ありがとうございました」。そんな一生会わないかもしれない人達からのたくさんの「ありがとう」に生を肯定されて生きている。

だから私は献血が好きなのだ。献血のために酒を控え、たくさん眠り、予約時間通りに向かった自分を肯定できる。そのためなら少量の血などやすいものだ。

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